学芸員のひとり言(その5)
刺繍マーク徹底研究
帽子の正面にデーンと陣取る球団マークは、野球帽にとって「顔」であり「命」でもある大切な部分です。時代の流れとともに、ワッペンから刺繍地ワッペンを経て、現在では直刺繍の帽子が主流となりました。意匠を凝らした素晴らしい刺繍は、当時の子どもたちのみならず、現代の我々野球ファンを大いに楽しませてくれるものですが、今回はこの刺繍マークについて、まずは時系列的に比較した上で、細かくじっくりと見て行くことにしましょう。
現在残っている帽子から類推するに、刺繍地ワッペンという橋渡しを経て、子どもたちが街中でかぶる帽子が直刺繍帽子に統一され始めたのは、1980年代の頭ごろではないかと思います。確かにこれは、ワッペン帽子と比較すれば本当に高級で、より”ホンモノっぽい”感覚に見えたかも知れません。また、現時点で年齢が40歳になるかならないか・・・程度よりも若い世代の方であれば、逆にこの形しか記憶にないはずです。
ただ、直刺繍の帽子が出回り始めたころの刺繍マークは、ハッキリ言って、かなりお粗末なものでもありました。今回、南海とロッテの刺繍ロゴを選んでみましたが、上に並べた写真のうち、左側のものが70年代後半の刺繍、右側のものが80年代後半の刺繍です。その間10年にも満たない歳月の違いですが、実際にこうして見比べてみると、糸の並びといい隙間といい、その粗末さがハッキリと見てとることができましょう。
隙間などだけではありません。南海ロゴに至っては、ただただ全体の雰囲気だけがそれっぽくなっているだけで、針の刺し順などは一切お構いなし・・・(苦笑)。南海ロゴでは最も大切な”車輪型のH”が、完全に見捨てられています。こんな状況だったからこそ、一時的にせよ刺繍地ワッペンの方がもてはやされたのでしょう。刺繍が上手く定着するのにも、それなりの歳月が掛かっていたのです。
もちろん、そうした紆余曲折を経て、現在販売されている帽子は、その大半が「直刺繍」タイプのもので、帽子が縫製された後、その正面に刺繍を施すという方法が採られています。上の写真は、いずれも直刺繍のものですが、左側のヤクルトのものが、一般的な平刺繍のもの、右側の日本ハムのものが、盛り上げ型のものです。1990年代後半から、メジャーリーグの帽子で登場し始めた盛り上げ型の刺繍は、写真でもおわかりの通り、ロゴがドーム状に盛り上がっているため、どこから見ても立体的に見えるというのが最大の利点だといえましょう。そのため、最近では日本のプロ野球チームでも、実際の選手仕様帽子として採用するところが出てくるようになりました。確かに、カッコいいにはカッコいいんですけど、ちょっと派手過ぎるような気がして、個人的にはイマイチ好きになれないんですけど・・・(苦笑)。
一方、”従来型”と言ってもいい平刺繍のマークですが、盛り上げ型と対比させるために、便宜上「平型」を名乗っているだけで、意図的に平たく作っているわけではありません。ヤクルトのロゴをご覧いただきましてもおわかりいただけます通り、もちろん真横から見れば、盛り上げ型ほどではないにせよ、それなりの立体感はあるものです。盛り上げ型と比較して傷みにくいのは、その出っ張り方から考えれば、当たり前かも知れませんね。
互いの質感の違いをより具体的にご理解いただけるよう、マリーンズの刺繍で確かめてみましょう。
上段が平型で、下段が盛り上げ型の刺繍ですが、それぞれ同じ位置から同じ方向の光を当てて撮影してみたものです。派手さは圧倒的に盛り上げ型の方に軍配が上がり、特にこのような銀糸では、その特性がよく出ています。遠くからも識別しやすく、選手仕様帽子でも続々と採用されている意味も、わかるような気がしますね。
ただ、その反面、これだけマークが浮き上がってしまいますと、至近距離からでは、かなり「エグい」雰囲気をぬぐい去れないのも事実です。斜め横からの感じでは、平型の方がロゴを見やすく感じますし、総じて上品な印象です。本当に、1人1人の評価が分かれるところですね。
盛り上げ型の場合、刺繍台座面には、しっかりとした土台が必要になります。ここでは、わかりやすいよう巨人の帽子を取り上げてみましたが、盛り上げ型にすることで、帽子と同色の縁どりが必要になっていることが見て取れます。選手仕様の帽子でもそうなのですが、こういう細かいところの差が、同じデザインでも全く異なった印象を与える原因となっているのでしょう。正直、同デザインの帽子とは思えませんものね。
一方、選手仕様の帽子はどうでしょうか? 実際の刺繍を見てみましょう。 上の写真はいずれも選手仕様の帽子で、左から順に南海のニット、南海のメッシュ、中日のメッシュ帽の刺繍を写したものです。平型でも相当の「厚み」があることがご理解いただけるはずです。特に南海の方などは、思わず「これ、刺繍地ワッペン?」と聞きたくなるような厚みですよね! ところが、とんでもない! これはちゃんとした直刺繍なのです。
また、目の粗いメッシュの生地であっても、ニット地と変わらないくらい緻密な刺繍が施されています。ここまでの細かい刺繍は、子どもたちがかぶるような一般的な帽子では決して見ることができないものです。
もう少し寄って見てみましょう。やはり、とても丁寧に縫い込んであるのがご覧いただけますでしょうか? 使用している糸も、光沢質のある最上級の白色糸で、こうしてみると「銀光り」しているかのようにさえ見えてしまいます。これは、中日の帽子もそうなのですが、市販帽子と選手仕様帽子とを比較した場合、その質の違いは、この「白」の糸に最もよく現れるのが普通です。
また、縫い方に関しても、市販帽子とはかなり異なります。同じ直刺繍でも、市販帽子は明らかに機械縫いの無機質な縫い方であるのに比較して、選手仕様帽子の場合は、それこそ「針の跡」が感じられるような暖かみがあります。これは、刺繍までのすべてを帽子メーカーが担当し、一貫した流れ作業の中で製造するのではなく、刺繍は専門の刺繍メーカーが担当するからです。それも、完全に機械化された刺繍機ではなく、それこそ「南海のマークを縫い続けてン十年」みたいな職人さんの手によってミシン縫いされているというケースが多く、そうした方々の手によるものだからこそ、無機質でない「何か」を感じることができるのでありましょう。「まさに芸術品だ」という言い方は、こういう部分から出ているものだと思います。
同じロゴでも、単に糸の品質ばかりでなく、根本的な縫い方からして全く異なっているケースも少なくありません。先ほど取り上げたロッテの80年代後半の刺繍をひと回り拡大した上で、同時期の選手仕様帽子のマークと並べてみました。左側が一般の帽子、右側が選手仕様帽子ですが、白色の糸をどう使って刺してあるか、その丁寧さは雲泥の差・・・ですよね。
こうした工夫は、帽子の裏側からも見て取ることができます。上の写真は、刺繍を裏側(内側)から見たものですが、左側のヤクルト市販帽子の直刺繍が刺繍面剥き出しのままになっているのに対し、右側の南海選手仕様帽子(メッシュ)は、刺繍面が内メッシュの中にあり、直接刺繍面が触れることはありません。これは「刺繍が、帽子製作のどの工程に組み込まれるか?」という部分の違いでもあり、効率を重視する市販帽子と、性能や使い勝手を最優先する選手仕様帽子との根本的なコンセプトの違いであるともいうことができましょう。最近、一部チームでは、こうした選手仕様のユニフォームや帽子などが購入できるようになりましたが、こうした製品が「高い」のは、こういう観点で考えれば、むしろ当たり前なのかも知れません。本当に好きなチームであれば、多少奮発してでも1つ購入し、こうした「こだわり」を楽しんでみてはいかがでしょうか?
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