〜黙考の巻〜
最終更新日 平成15年2月3日




第32章 さらばMくん


 成田抜きのマロンは、元気に夏を越え、冬を耐え、春の脱皮をクリアしていました。さすがに「ピシッ」という音こそ立てなくなりましたが、動きは実に機敏でありました。マロン艦隊も、新しい成田抜きの個体が加わり、錚々たる布陣です。男は、いつか来るであろう「マロン繁殖」に想いを馳せながら、まずは成長への実績を積むことに励んでいました。
 ただ、不安がないか・・・といえば、そうでもありませんでした。長いこと、よき「相棒」であり「相談相手」であったMくんが、転勤のため、宮城県に行ったままであったからです。古代魚しか本格的な熱帯魚飼育経験のない男にとって、当たり前のような顔をしながらディスカスの仔を採り、そして水を操るMくんは、頼りになる存在でした。文献データによって適切な水質域がつかめれば、あとはMくんに任せるだけで、それにピタッと合った水の回る濾過セッティングを作ってくれましたから、頼りにするのも当然だといえましょう。Mくんは、仙台近郊にあるワンルームのマンションにディスカスの水槽とマロンの水槽を合計3本持ち込み、細々と飼育を続けていましたが、自宅に20本近くあったディスカスとザリガニの水槽は、転勤が決まった時、仲間に気前良くすべて譲ってしまった・・・とのことでした。男の家にも、60センチ水槽と45センチ水槽が、何本か嫁いできておりました。
「アイツも、思い切ったことやるよなぁ・・・」
男は、そんな程度にしか考えていませんでした。何年か経てば、またこちらに戻ってくるだろうから、そうなったら、また一緒にやればいいや・・・くらいにしか、捉えていなかったのです。
 それからいくつかの季節が過ぎ、Mくんナシのザリ生活にもやっと慣れてきたころ、実家に帰ってきたMくんから、突然電話が掛かってきました。ずいぶんと深刻そうな相談の電話です。男は、翌晩に会う約束を取り付けると、けげんそうに受話器を置きました。
次の日の夜、いつもの飲み屋にやってきたMくんは、挨拶もそうそうに、こう、切り出しました。
「驚かないで下さいよ。会社的には大出世なんですけど、ザリとかディスカスとか、もう飼えなくなりました」
「え? どうして?」
「転勤です。仙台勤務は来月までで、再来月から上海です」
「シ、シャンハイ?」
「ええ、ウチも現地生産体制を作らないといけないことになって、その立ち上げのチームに選ばれちゃいました。僕も迷ったんですけど、やるしかないかな・・・って」
「そうか、一応、おめでとう、っていうべきなんだね」
「はい。ザリはお任せできるんでよかったんですけど、ディスカスの方がね。せっかくドイツ系のロートターキスがいい仔が出始めてきたんで、こっちの方は断腸の思いですよ」
「JCCも、何とか形になってきたのに、寂しいなぁ」
「ええ、佐倉に来てくれたメンバーさんしかお会いできなかったし、Nさんにも、一度はお会いしたかったんですけど、残念です・・・」
男とMくんの思い出話は、その後も夜が更けるまで続きました。
「あっちいったら、新しい趣味、見つけますよ。誰とでも仲良くできるのは、特技みたいなモンだから・・・」
そんなMくんの明るい声を聞きながら飲み屋を出た時には、もう、東の空も白んできていました。




第33章 「黒い衝撃」への序曲


 Mくんが日本を離れた後も、男の戦いは続いていました。Mくんがいない分は、Nさんが親身になって相談に乗って下さいましたし、一生懸命サポートして下さっていたので、JCCの活動にも、ほとんど支障が出ずに済みました。
 さて、悲しい「サガ」とでも申しましょうか、行き着くところまで行き着かないと気が済まないという男の交友範囲は、この時期、もはやショップだけにとどまらない状態になっていました。様々なツテを辿って問屋にも首を突っ込むようになり、何軒かのところでは、それなりに話をしたり、個体を見せていただけるようにもなっていたのです。ディスカス繁殖の関係で、かなりのネットワークを築いていたMくんの貢献度も大きなものがあったはずで、まさしく彼の「置き土産」であったのかも知れません。
 いずれにせよ、本来であれば、素人などが立ち入れる所ではなく、また、立ち入るべきではないのかも知れませんが、これだけザリガニに狂っている男ですから、問屋側としても、とりあえず当座の情報源としては捕まえておいた方がいい・・・と判断されたのでしょうか? 不思議と、邪険に扱われることはありませんでした。もちろん、男も、それなりの「分」はわきまえていましたから、土足でズカズカと入り込むようなことはしませんでしたし、毎回、缶ジュースなどを差し入れしながら出荷パッキングなどの手伝いもする代わりに、新しい名前のザリガニが入れば、すぐに連絡してもらったりチェックさせてもらう・・・というような感じでした。
 それにしても、ここまで来ると、男は立派な「ザリガニ版・新着ハンター」です。実際、男にとって、誰よりも早く情報をキャッチし、そして誰よりも早く個体を入手できることが、少なくともこのころは一番嬉しいことでした。もちろん、例によって珍妙なインボイスの個体輸入情報を聞きつけて即座に予約し、それが「1匹ン万円のオニテナガエビ」であったことも、相変わらず何度かありました。でも、その落胆分を差し引いても、誰よりも早く新種をゲットでき、自分の水槽へ収められる喜びには代え難かったのです。今から思えば、あまりに空しい「幻」を追う旅ではありましたが、当時の男にとっては、それこそが「目的」であり「夢の実現」でありました。ザリガニが好きだ・・・などと、口では偉そうなことを言っていながら、結局は自分の水槽に取り込むことでしか、自分の行動を考えることができなかったのです。「ライフワーク」としてザリガニと本気で向かい合うには、まだまだ未熟過ぎたのかも知れません。
 さて、そんなある日のこと・・・。男の家に、一本の電話が掛かってきました。通称「ゾンちゃん」という、某問屋の若手社員さんからです。
この「ゾンちゃん」・・・。元々はMくんがディスカスを通じて知り合った友人で、そうしたつながりから、Mくんがいたころより、時々一緒に酒を飲むようになっていた若い子でした。「ゾンちゃん」とは、当時ストック場で呼ばれていたニックネームで、主にアフリカンシクリッドを守備範囲にしていましたが、難関魚を次々と繁殖まで持ち込む技術は問屋内でもピカイチで、顧客である多くのショップからも、非常に高い信頼を勝ち得ていた「凄腕アクアリスト」という一面も持っていました。同じシクリッドということで、Mくんと相通ずるところもあったのでしょう。酒席で始まるゾンちゃんとMくんとの「飼育法激論」は壮烈でありました。Mくんが日本を飛び出した今、話し相手とすれば、男はMくんよりもはるかにチャランポランでありましたが、ゾンちゃんの話を聞くのは大好きで、また、ゾンちゃんも気軽に話してくれました。
「あのぉ、来週の火曜便なんですけど、見に来ません?」
「あ、いいよ。何か入って来るの?」
「ええ、その便の発送リストに、たぶんサンプルだと思うんですけど、ニュースターブラック・ロブスターっていうのが載ってるんですよ」
「え? にゅうすたあ・ぶらっく・・・?」
「ハイ。それ以外のことは、こっちもよく判らないんですけど」
「わかった。じゃあ、とにかくお伺いしまぁ〜す」
男は、怪訝そうな顔をしながら受話器を置きました。今まで「なんとかブルー」というインボイスには、何度もだまされ、しかし何度も随喜の涙を流してきました。でも、今度は「ブルー」でなく「ブラック」・・・なのです。黒いザリガニというものが、なかなかイメージとして湧いてきません。男は、さっそく資料にあたりました。そういえば、武田先生が、黒いザリガニのことを話されていたっけな・・・。
 男は、武田先生のお話を思い出しました。「かつて大阪のお風呂屋さんが、廃業した風呂を使って真っ黒なザリガニを養殖して売ろうとし、そして結局成功はしなかったこと。そして、武田先生もそこへ行って様子を御覧になり、そのザリガニがマロンであったこと・・・。」こうなると、今度来るザリガニも、結局は「原種」タイプのマロンなんだろうか・・・? 男は、あれこれとそんな予想を立てながら、師匠へ電話を掛けました。
「来週、あの問屋さんにニュースターブラックっていうザリが入ってくるらしいんですよ。ブラックだっていうから、きっとマロンの原種あたりだと思うんですけど・・・」
「え? マロン? そりゃあウソだよ! 形はマロンっていうよりヤビーだぜ! もうウチにいるんだ。先々週にサンプルで2匹入ってきたから、そのまま抜いて持って帰ってきちゃった。でも、調子はよくないね」
「え?・・・ヤビー、ですか?」
「ああ。ヒゲが真っ赤で、ツメとか顔もちょっと違うけどね。パッと見た格好は、まんまヤビーだよ。今いるよ。見に来るかい?」
「ごめんなさい。今週末は用事があるんで、火曜にこっちで見てから、また連絡します。こっちで見るのと違うようだったら、すぐそちらにお伺いしますから・・・」
男は、何が何やらわかりませんでした。そして、戻した受話器を再び取り上げると、そのままその問屋へと電話をかけました。これは大変なザリガニに違いありません。何が何でも、その個体をその場で譲ってもらい、他に流れる前にゲットする必要があったからです。お金や収容水槽のことなど、全く考えてもいませんでした。「2匹そっちに出せばいいのね? 数はたぶん少ないと思うけどね。送らなくても、どうせ火曜に自分で抜きに来るんでしょ? いつもお世話になってるから、こっちの出し値でいいよ」という主任さんの言葉ですら、ほとんど上の空で聞いていたのです。
「ヒゲの赤い、真っ黒なヤビーかぁ・・・」
男の頭の中には、今まで見たことも考えたこともない、SFチックな真っ黒いヤビーの姿が、グルグルと回り続けておりました。




第34章 黒衣の刺客


 いよいよ火曜日の朝・・・。問屋さんのストック場には、そわそわしながらトラックを待つ男の姿がありました。「おぉ! 相変わらず気合い入ってるねぇ」「何? 今日は黒塗りの観音様だって?」・・・と、中年の社員たちが、励ましとも冷やかしともつかぬ声を掛けながら、男の肩を叩いて通り過ぎて行きます。いつもなら、気の利いた冗談でやり返す男も、今日ばかりは、会釈して見送るのが精一杯でありました。暇つぶしに手伝う水槽掃除にも、一向に身が入りません。「見たことあります? この魚がね、今回ウチが初めて入れた魚なんですよ。取材も注文もひっきりなしでねぇ・・・」と、自慢げに新着魚を語るゾンちゃんにも、生返事で返すのが精一杯だったのです。

「まさか、師匠がヤビーとマロンを見間違えるはずがない。やっぱり新種なんだろうか・・・?」
「突然変異なら説明もつく。でも、変異個体が一度にそう何匹も出回るはずがないし・・・」
「もしかしたら、クーナックなんじゃないだろうか? でも、どう考えても現地からの輸出ルートがないし・・・」
「成長過程で一時的に黒っぽく見えるような、単なる変化途中の個体なんだろうか? でも、それなら師匠が手に入れるはずもないし・・・」
男の中を、様々な予想が浮かんでは消え、消えては浮かびます。ストック場の壁に掛かった丸い時計の秒針は、これ以上にないほどゆっくりと回りながら、男の姿をせせら笑っておりました。

 お昼過ぎ、いよいよ待望のトラックが到着です。男は、まるで体中の血が逆流でもするかのような緊張と興奮とに襲われながらも、「呼んでいただいた人間の礼儀」として、トラックからの荷物降ろし手伝いに精を出していました。
「本当なら、すぐにでも発泡スチロールを開けて、その個体と御対面したい・・・。でも、本当なら俺は、ここにいちゃいけないはずの人間なんだから、今日見ることができるっていうことだけでも、幸せだと思わなきゃ・・・」
男は、そんなことばかり考え、トラックからの受け渡し行列の中に入っておりました。そんな男の心の中などお構いなしに、発泡スチロールの列は続き、降ろし作業は淡々と続いて行きます。男にとっては、長く、そして余りにも遅い時間の流れでありました。ストック場の中では、すでに開梱作業も始まっているようです。男の心が震えます。
 すべての発泡スチロールがトラックから降ろされるころ、ストック場の中から主任さんの声が聞こえました。
「ハァイ、お待たせぇ〜。黒い観音様だぞぉ〜。うわぁ〜、本当に黒いや!」
男は、一目散に駆け込み、発泡スチロールの中から出てきたビニール・パッキングを覗き込みます。
「く、黒い! 本当に真っ黒だ・・・」
男は、思わず息を呑みました。鈍い光沢を持った漆黒のボディーに、アンバランス極まりない真っ赤な触角をピクピクさせたヤビーそっくりのザリガニが、自分の手の上にあるパッキング袋の中で、じっとこちらの姿を窺っているのです。ヤビーだといえば限りなくヤビーに近く、ヤビーでないといえば、限りなくヤビーと違うザリガニでありました。男は、それなりにこういう新着の現場にも立ち会って来ましたので、ちょっとのことでは驚かなくなっていましたし、まるでイッパシの業界人でもあるかのように、平然と振る舞って見せるだけの経験も度胸もついていたつもりでおりました。でも、一体どうしたというのでしょう、血は沸き肉は躍り、そして心の震えは止まる気配がありません。その後、どうやって手伝いをしたかの記憶が全く残らないほど、男の心は興奮しきっておりました。
 やがて何とか心臓の鼓動も落ち着き、ふと気付くと、男は発泡スチロールに入っていたままのパッキング袋2つを下げて、家への道を急いでいたのです。




第35章 ブラックホールの入口で


 久しぶりに男の心を震わせ、一気に燃え上がらせたこの黒いザリガニ・・・。予想通りというか何というか、噂は瞬く間に広がり、アッという間に大きな話題となりました。翌々便からは、なぜか「スター」が「ジェット」に変わり、より精悍さを増した「ニュージェット・ブラック」というインボイスとなりましたが、まるでキーパーたちの狂気に満ちた反応を予想でもしていたかのように、続々と入ってきました。どこのショップに顔を出しても、「ねぇ、真っ黒いザリガニ、知ってる?」という話題が出てきましたし、男の家にも「黒いザリガニについてお聞きしたいんですが・・・」なんてお便りや電話が、続々入ってきていたのです。
 ただ、寄せられる質問や飼育報告の方は、これまたまるで示し合わせでもしたかのように、旗色の悪い話ばかり・・・。それも「翌日死んだ」「5日しか持たなかった」というような深刻なものがほとんどなのです。聞く方も切羽詰まった感じの声になれば、答える方も、自ずと苦しく、厳しい内容になってしまうのは、自然の成り行きでありました。
「冗談じゃねぇよ! どうすりゃいいかって、こっちが聞きてぇぐらいだぜ!」
男は、受話器を置くと、いつもこんな具合でありました。それもそのはず・・・。あれほどの興奮の中で対面し、希望に燃えて持ち帰った、最初の個体2匹は、必要最低限の飼育データすら残すことなく、2週間ちょっとであえなく撃沈していたのです。当時、まだ数少なかったマロンの長期飼育に成功しつつあり、師匠に続いて快調に連続飼育記録街道を驀進させていた男にとっては、「自分がザリ飼育で失敗などするわけがない」というような、それこそ愚かなプライドもありました。よくよく考えれば、こんなプライドなど何の役にも立たないのですが、とにかく男にとっては、個体を持たせることができずに落とした自分が恥ずかしく、情けなく思えていたのです。自分がうまく行かなかったものの解決方法を他人に質問されても、適切な答えなど出ようはずがありません。電話口で互いに気まずくなり、受話器を置いた後、つい、先ほどのように吐き捨ててしまうのも、人間的にまだまだ未熟な男からすれば、仕方ないことでありました。それでも、何とかしたいわけで・・・。こういう状況になった時、男はもう、師匠に頼る以外なかったのです。
「あのぉ、例の黒いザリガニなんですけどぉ」
「落としたか! アッハッハッハ。こっちもそんな話ばっかりだよ。ウチも2匹はダメだった」
「じゃあ、他のは生きてるんですか?」
「ベストの状態じゃないけどね。残りは何とか生きてるよ。本当に不思議なのはさぁ、古い水の方が元気がいいんだよね。あと、海水強めに使ってる方も、今のところ餌喰いは落ちてないなぁ・・・」
「やっぱりいいんですかねぇ? そのやり方の方が・・・」
「わからないよ。たまたまかも知れないなぁ。今度ばかりは、俺もよくわからないんだよ。単に、落ちてないだけかも知れないしね」
「そうですか・・・」
男にとって、それはほとんど、謎掛けのようなものでした。ヒントであるといえば立派なヒントであり、偶然の一事例といわれてしまえば、それ以上の何物でもないように思えてしまいます。今のように、JCCのネットワークや情報網があるわけでもなく、キーパーの数自体、知れたものでありました。師匠からの情報が望み薄となると、状況は一気に険しくなってしまうのです。
 それからしばらく経った週末、男は久しぶりにゾンちゃんを飲み屋に誘いました。いつもMくんを交えて賑やかに囲んできた酒席も、今日はどことなしか寂しげです。
「こないだの黒いの、ダメだったんですって?」
「あぁ、ごめんな、せっかく連絡してくれたのに・・・」
「いや、別にそれはいいですよ。こっちもね、あれはすっごいクレーム多いんですよ」
「クレーム?」
「そう! 死着ばっかです。出す時はちゃんと生きてるのに、翌日着でも、なぜかあれだけ落ちてるんですよ」
 ゾンちゃんの話では、夕方発・翌朝着の便で、マロンですら全く問題ないセットで発送しても、ニュージェットだけがダメなことが多い・・・と。彼はきっと、この話を出すことで、男を慰めようとしたのでしょうが、男の悩みは、深まるばかりです。
「なんか、レッドクロウの時と同じような展開になってきましたね。Mさんと一緒に3人で悩んだモンなぁ・・・」
「あぁ・・・。でもさぁ、あん時みたいに、せめて素性だけでもわかるといいんだけど・・・」
男とゾンちゃんは、深くて長いため息をつきました。




第36章 疑惑の「痩せたザリガニ」


「レッドクロウの時と同じ展開・・・?」
 前章公開後、多くの方から「レッドクロウの展開というのは全然出てきてないけど、それって何?」というお問い合わせのメールをいただきました。今から考えれば、これはあまりにも恥ずかしいレベルの話ですので、最初の予定では、この物語で触れないつもりでいたのですが、クーナック初輸入時の「騒動」や、この時の男の混乱ぶりを語るためには、やはり、このできごとを隠したままにするわけにも参りますまい・・・(苦笑)。話は、男がクーナックに出会う時から、さらに数年前に遡りますが、ここまで自分の恥をさらせば、もう怖いものなど何もありませんので、勇気を奮って取り上げてみましょう。でも、あの時は、ホント一生懸命だったんですぜ(苦笑)! てなわけで、数年前にゴー!


 その日、男の家に、当時、宮城に転勤していたMくんから電話が掛かってきました。
「ゾンのところに、ロス便のサンプルで、今日、ヘンな形のザリガニ来たらしいんですけど、抜かれる前に見に行ったらどうですか?」
「変な形って?」
「なんか細いというか、痩せっぽいんらしいですよ。色は水色なんだけど、微妙に緑っぽいところもあるって言ってました・・・。今日行かないと、明日◯◯のオヤジが来るみたいだし、そしたら、間違いなく引かれちゃいますぜ!」
 ◯◯とは、毎月のように「日本初輸入」の魚をデビューさせる関東地区でも超有名な珍・怪魚ショップで、ここの御主人さんも、業界内ではちょっとした有名人でありました。彼の「珍魚を見つけ出す眼力」は、もはや神業であり、ひとたびストック場に足を踏み入れると、膨大な数の水槽の中から、必ずといっていいほど、そうした価値のある魚を見つけ、買い付けていってしまうのです。そのオヤジが来るとなれば、もはや持って行かれたも同然・・・。
「よし、わかった! 今日中に行くよ!」
「了解! ゾンにはこっちから電話しときますよ!」
男は、すべての予定をキャンセルして、ゾンちゃんの勤める問屋さんへと車を走らせました。
 赤い大きな太陽が、今まさに沈もうというころ、男を乗せた車は、ストック場の裏手にある駐車場に滑り込みます。問屋は、ショップと違って朝10時前には作業が始まりますし、夕方になると、次々と社員が戻ってきては、家路へとついて行きます。そんな感じですから、車庫には営業車ばかりが並び、社員の車は数えるほどしか残っていません。男は、申し訳なさそうに入口へと急ぎました。
「ホラ、これがそのザリガニなんですけど、どうです? ブルーロブスターっていうインボイスなんですけど・・・」
済まなそうな顔で入ってきた男の姿を察してか、ゾンちゃんはいつも以上に優しく出迎え、そういって、ストック場の隅にある45センチ水槽を指さします。男が真剣な表情で覗き込むと、そこには、今までのどのザリガニとも違う、薄青い細身のザリガニが2匹、長旅の疲れを休めていました。
「なんかさぁ、思いっきり細身だよねぇ」
「そうなんですよ。膨らみがないっていうか、なんか、筒みたいッスよね?」
「どこのザリなの?」
「わかりません。ただ、ロス便なんですけど、一緒に入ってた魚からみると、中米の、メキシコあたりっぽい雰囲気ですね」
「メキシコとか、あそこらへん?」
「こいつがそこ産かどうかじゃなくて、一緒に来た魚から想像すると、そっちの方か・・・と」
「フ〜ム。でも、筒っていうより、ちょっと太めの棒・・・って感じだよなぁ」
「アハハハ、棒ッスか! そりゃ確かに、そうかも知れませんねぇ・・・」
 その日の夜・・・。男は、駅前の居酒屋で、ゾンちゃんと焼き鳥をつまみながら、酒を酌み交わしておりました。ゾンちゃんの「メンツ」を立てて、今日見た個体は「◯◯のオヤジ」用・・・ということで、先抜きすることなく、ストック場に残したままでしたし、わざわざ男の到着を待っていてくれたお礼にと、男の方から招待していたのです。貧乏で、おまけにケチな男からすれば、これが当時できた「最高の接待」なのでありました。
「でもさぁ、あれを中米産・・・って言い切っちゃっていいんかなぁ?」
「断言まではできませんよ。所詮はサンプルですから、情報だっていい加減なモンです。でも、中米産でほぼ間違いないとニラんでます」
どうも歯切れのわるい男を後目に、ゾンちゃんは串をくわえながら、自信ありげでありました。
「でも、さっきも今も、ヤケに自信ありげじゃんよぉ」
「自信とか言われると困っちゃうなぁ。でも、それでなくても、最近は北米ルートの輸入が少ないんですけど、一緒に入っていた魚が、圧倒的に中米系だったんですよ。結構マニア受けする小型魚も多かったし・・・。だから俺は、そう睨んだんです。おまけにこのルートは、圧倒的にWCモノ(=野生捕獲個体)ですからねぇ。メキシコの熱帯魚養殖場だとか、メキシコ人のプロ・ブリーダーなんて、聞いたことないでしょ?」
「そうだよなぁ・・・」
さすがはすべてを知り尽くした凄腕アクアリスト! ゾンちゃんの立てた推理は、一から十までほぼ万全でありました。ただ、だいぶ前に師匠の家で見た、メキシコのザリガニといわれる「メキシカン・パインブルー」は、明らかに今日のザリガニとは違う姿形をしていたのです。別種だったら・・・という考え方もありましたが、それにしても、その違いにはあまりに大きな開きがありました。
「突然変異とか・・・かなぁ?」
「いやぁ、そのセンはないと思いますねぇ。このことは、業界内部の人間じゃないと、なかなかわからないと思うんですけど、サンプルで送ってくる時はね、たいてい向こうは必ず、それなりの数を持ってるってことなんですよ。だから、売り込みみたいな気持ちで、送って来るんです。希少種とか突然変異とか、とにかくそういった特別のものなら、こっちが何も言わなくたって、向こうからそう言ってきますよ。サンプルになんて、もったいなくて絶対にしませんよ。値段だって全然違うんだから! 下手すりゃ、同じ魚でもケタ1つ違うんです!」
「なるほどねぇ・・・」
「確かに、アフリカンでいえばマラウィ系のベタ青とか、ザリガニなら白ザリなんかそうですけど、突然変異でもそれなりに養殖ができていれば、こういう形でサンプルばらまいて様子を見ることだって、できないこともないでしょうけど、仮にそうでも、それだけのことができるのは、やっぱヨーロッパの業者ですよね? あいつらは、それだけの規模も技術もある。中・南米系は、ディスカスとか一部のメジャーなのを除けば、圧倒的にWCモノですよ」
「そうだよなぁ・・・」
「そうでしょ? あそこらへんに、そんなことができる業者さんがあるとは思えませんよ。仮にあったとしても、もっと確実に儲かるディスカスとかをやるはずです。ザリなんて、絶対やりません! だから、そう踏んだんです。南米便もそうだけど、ほとんどが現地の取り子さんが取ってきた、そのまんま・・・みたいな感じですわ。だから、この便が入ると、◯◯のオヤジも必ず見に来るんですよ」
「なるほどねぇ・・・」
男は、ゾンちゃんの「演説」に、ただただ耳を傾け、頷くばかりでありました。納得は決してできなけれど、納得しなければ仕方ないだけの説得力が、ゾンちゃんの言葉の中にはあったのです。でも、師匠がウソをつくはずもなく、そして、師匠の情報網に狂いなどあるはずはありませんでした。
「いったい、どっちが本物なんだろう・・・」
 男は、どうにも確かめようのない難問の登場に頭を抱えながら、この問題だけは決着をつけなければならないという、妙な昂揚感も同時に沸き上がっておりました。しかし、この時、まさかこの問題が「両方ともメキシコ産ではない」という結論に至ることになるとは、男もゾンちゃんも考えてはいませんでした。




第37章 嵐の予感


「参っちゃいました。とんでもないクセ者でしたよ、あれ・・・」
「あれって・・・?」
何週間か経った後、久しぶりのストック場へ差し入れを持って現れた男に、ゾンちゃんはこう、切り出しました。
「こないだのメキシコザリガニですよ。結局、あの次の日に予定通り◯◯のオヤジが2匹とも持ってっちゃったんですけど、その次の日に両方落ちたって、ブーブー文句いわれちゃったんです!」
「もうメキシコって決めてんの? それにしても、確かに何となく、クタってたもんなぁ・・・」
「でもね、実は、もうオーダーが来てるんですよ。だから、こっちからもオーダー出してますから、早ければ再来週には来ますよ。どうです? やりますか?」
「コンディションよければね! でも、同じ状態だったら、パスだなぁ・・・」
「あはははは、それって反則じゃないですか? ショップの人が聞いたら、マジ怒りますよぉ!」
「ヘヘヘヘッ! ま、いいってことよ。コネの勝利ということで・・・」
「あとね。次のドイツ便で、レインボーブルー・ロブスターっていうのも、来るみたいですよ。凄いですね、今、ブームですね!」
「レインボーっていうの? タマムシみたいなザリかなぁ? アハハハ」
「こっちも飼いたくなってきたでしょ?」
「ウン、まぁ・・・ね」
 あの時に見たメキシコザリガニ・・・。決して、嫌いなタイプではありませんでした。スタイルもカラーリングも、充分魅力的でしたし、興味もひかれました。ただ、男はどうしても、素直に自分のところへ迎える気になれなかったのです。というよりも、このザリガニは、男にとってあまりに謎が多すぎました。何も知らずにブルーマロンを飼育し、たった3日で殺したところからスタートした男のザリガニ人生・・・。「全く何も知らないまま」ということへの恐怖は、まさにトラウマのような状態になっていたのです。男は、新着ハンターにしては珍しくアクションを起こさず、より確実なヨーロッパ便であるレインボーブルーだけの予約をして、家路につきました。

「メキシコのザリガニだって? パインブルー以外にメキシコのザリガニだっていうのは聞かないなぁ。その若い子の思い違いじゃないの?」
切羽詰まって電話した受話器の向こうで、師匠も首をかしげました。男は、とりあえずゾンちゃんの主張内容をすべて伝え、師匠もそれには納得してくれましたが、それでも、どっちが本当のメキシコザリガニなのかという結論は、出ようはずがありません。
「そういえば、来週か再来週、コノンデールロブスターっていうのが成田に着くよ」
「こっちも来週、レインボーブルーっていうのが来るみたいです。2匹予約しちゃいました」
「フ〜ン、これじゃブームだな、今・・・。でも、これはザリガニだけの話じゃないんだけどさぁ。今みたいに火がついてる時は、一度にいろんなのが、ゴチャッと入ってくるんだ。こういう時こそ気をつけなきゃいけないんだよ。変わったザリガニだったり、変な特徴持ってたら、すぐ連絡してな。こっちも連絡するから・・・」
「ハイ、わかりました。よろしくお願いします」
男は、ため息ばかりで受話器を置きました。これでは、とても「メキシコ産」ブルーロブスターを飼う気など起こりません。でも、バリバリの新着ハンターとしては、みすみすそうした個体を見逃す勇気もなかったのです。時折水槽を見に尋ねてくるキーパーに、入ったばかりの誰も持っていないザリガニを誇らしげに語る「悪魔の悦び」は、男に余計なプライドと、意地とを植え付けつつあるのでした。
「何とかしなきゃ! ちょっとでもデータを集めて、せめて棲息地の基本データくらいは手に入れなきゃ・・・」
 ところがその翌々週、頼んでいたレインボーブルーが入ってくるというその日、事態は、男を凍りつかせる状況へと進んで行くのです。




混迷の巻(第38章〜)に続く