〜邁進の巻〜
最終更新日 平成14年7月27日




第26章 マロンは強いザリだって?


 新しい師匠を得た男は、一段とザリへの道にのめり込んで行きました。男も、さすがに子どもではないので、何でもかんでも電話を掛けて聞くようなことはしませんでしたが、それなりに迷い抜き、どうしても結論が出ない時には、師匠の声を聞くために受話器を持ちました。すると師匠も、相変わらずのスタンスで、わかる限りのことを教えて下さったのです。
 この当時、男にとって最大の疑問は、やはり「水換えで落ちる個体がいる」ということでした。自分のところではほとんど発生しなくなってきていたので、知ったこっちゃない・・・と言ってしまえばそれまでですが、会員と話をしたりすると、特にマロンのケースでは、必ずといっていいほど、話題に上がってきていたのです。知識はないくせにプライドだけは一人前の男にとって、「さぁねぇ・・・」「ちょっとわかんないなぁ・・・」などと言える勇気も、度量の広さもありません。人格者の師匠に比べて、なんとまあ、器量ナシの弟子なのでしょうか・・・。
 男は、最近、めっきり会わなくなったMくんに電話を掛けてみましたが、これまた相変わらずの留守番電話・・・。
「そういえばアイツ、とにかくメチャクチャ忙しいって、言ってたもんなぁ・・・」
男は、ガックリと肩を落としました。ザリを始めるはるか以前からの付き合いであったMくんも、どうやら会社で上司の目に留まり、新しいプロジェクトで大活躍しているらしく、最近は、日曜日すら連絡が取れないこともザラで、彼の愛するディスカスの水換えも、明け方にこなしているほどの状態だったのです。これは、もう師匠に聞くしかない・・・。
 男にとって、師匠は、疑問を何でも解いてくれる、いわば「玉手箱」のような存在でした。師匠が「今の時点じゃわからないんだよ」と言えば、素直にそれを受け入れることができました。しかし、男にもプライドがありましたから、何でもかんでも質問してしまえばいい・・・という安易な姿勢を、自分自身許せなかったのです。しかも、今回は「水換えすると落ちちゃうんですけど・・・」なんていう、これ以上ないほどの安っぽい質問内容・・・。男は、そんな質問を何の臆面もなくぶつけてしまおうとしている自分が、イヤでイヤで仕方がありませんでした。でも・・・。
 師匠は、電話に出ると、しばらく黙って男の話を聞いていました。そして、一言。
「水換えをして落ちるっていうのは、やっぱり、換えるってことに問題があるんじゃないかなぁ・・・」
男は、我が耳を疑いました。「水換えをしろ」というアドバイスは、いろんなところで、いろんな魚で、いろんな人が語っていました。でも、ディスカスでもあるまいし、水換え自体に疑問を投げ掛けるなど、聞いたこともなかったからです。
「換えちゃまずいんですかねぇ?」
「まずいとまでは言わないけどさぁ。だいたい水換えっていうのは、個体のためによかれと思ってやるわけでしょ? それが換えてダメだっていうわけだから、換えることで起こる何かに原因があるわけだよね。水を換えるというのは、必ずしもいいことばかりじゃないよ。環境がまるっきり変わるわけだから・・・」
「ディスカスやってる友人も、同じようなこと言ってたことがあったんですけど」
「うん、あれなんか典型だよ。生かすのと殺すのが紙一重ってやつでね。やらなきゃダメだけど、やり方間違えれば一発でアウトだし・・・」
「マロンの場合もそうだってことですかねぇ?」
「ハハハ、マロンはそこまで行かないよ。ウチの大きいのいるでしょ? あれは3カ月近く足し水だけで飼ってるけど、ピンピンしてるもん。こないだ見てもらった大きい水槽の方が、それだよ」
「3カ月?」
男は、これまたギョッとしました。いくら自分の師匠だとはいっても、飼育の難しいマロンを3カ月も、足し水だけで飼っているなど、とても信じられるものではありません。
「マロンはさぁ、みんなああだこうだもったいつけて言うけど、馴れちゃえば丈夫なんだよ。じゃなきゃ、俺みたいなちゃらんぽらんな人間が、飼えるわけないよ。換える時は、結構どさっと換えちゃうけど、大丈夫だよ。本当は強いんだよ、マロンは・・・」
「はぁ・・・」
「ただね、それはあくまでも元気な状態でだってこと。ショップなんかに行くと、ヘナヘナしちゃってるの、よくいるでしょ? あれはダメ。俺も、仲間のショップから引き取ってきたのをあれこれ試したことが何回かあったんだけどさ、何やっても持たなかったね」
「じゃあ、問題は水換えじゃなくて、個体の状態だと?」
「断言できないけどね。マロン自体が水換えに弱いザリガニなら、ウチのはみんな落ちてるはず。でも、落ちないのは落ちない。それこそ、ちょっとやそっと荒いことしたって、平気な顔してる。キミのところもそうでしょ? だったら、それは水換えに問題があるんじゃなくて、個体自体に問題があるって考える方が自然じゃないの? 水換えでの環境変換すら耐えられないくらいに弱ってれば、個体にためにやったつもりの水換えは、そいつを殺すためにやってることになるから・・・」
「確かに、そうですよねぇ・・・」
男は、納得したようなしないような、それこそ「狐につままれた」ような気分で電話を切りました。確かに、自分のところのマロンは、少々キツめの水換えをしたところで、落ちるようなことはありませんでした。でも、だからといって3カ月も足し水だけで飼える自信などありませんし、ましてや「マロンなんて丈夫だよ」と軽く言い切れる自信など、脳味噌のどこをどう探しても見つかろうはずがありませんでした。
「師匠のことだから、いい加減なことは絶対に言わないだろうし・・・」
男は、何が何やら、まったくわからなくなってしまいました。


第27章 聞き役の功名


 水換えが悪いのではなく、個体の方が悪い・・・。
 男は、そんな師匠の言葉を、数日経っても上手く飲み込めないままでいました。現地で捕まえた個体を持って帰ってきているわけでもないのですから、「個体を買う」という点では、師匠も私も、そして実際に個体をバタバタ殺してしまっているキーパーも、みな同じはずなのです。そんな状態で、個体のコンディション格差を要因にできようはずがありません。でも、師匠の発言にウソがあるとも思えませんでした。だったら、一体・・・。
 男は、改めて、そうした事例に見舞われたキーパー全員に連絡を取り、状況の聞き取りをし始めました。一人一人の状況は、そのつどすべて伺っていたのですが、聞き漏らしがあるかも知れないし、何か新しいことがわかるかも知れない・・・と思ったのです。
 キーパーのみなさんは、どなたも親切に状況を教えて下さいました。でも、男が期待したような新しい事実は、やはり、どこを探しても出てきません。「ショップで見つけて、購入し、自分の水槽に収容して、数週間普通に生きて、水換えしたと思ったら、急に餌喰いが落ちて死ぬ・・・」それだけのことでした。
 久しぶりにMくんと会ったのは、それからしばらく経った日曜日でした。仕事が忙しいからでしょうか、心持ち、機嫌が悪そうに見えます。酒を飲み始めるなり、
「あぁ、マジでやってらんないっすよ!」
「おいおい、俺に突っかかんなよ。お前が選んだ仕事だろうが」
「仕事はいいですよ。今月も時間外で2万以上ついてるし、ラッキーです! それより、聞いて下さいよ。せっかくいいヘッケルが入ったっていうのに、問屋の野郎のストックが最低だったから、いきなりヘタってんですよ。そりゃあ、俺も忙しくて、取りに行くのが遅れちゃったから、悪いっちゃ悪いんだけど、ショップの在庫処分じゃあるまいし、どうしてヘタった個体をつかまされなきゃいけないんですか! 2万ですよ。2万! これで落としたら、俺の今月の時間外はパーですもん」
「へ〜、お前でもそんなことあんの」
「だからムカついてんですよ。あそこはディスカス詳しいとか自慢してるくせに、ブリード物と同じストック してんですよ。見に行って大ショックです。もう、あそこからは絶対買いません!」
男は、今日、Mくんに例の水の件を相談したくて来たのですが、とてもそれどころではなさそうです。もっとも、いつも聞き役になってもらっているMくんのことですから、今日くらい、こちらが聞き役に回るのもいいなぁ・・・とも思っていました。
「ヘッケルっていうのは、ワットレイとかと違うの?」
「かぁ〜、これだから大型魚マニアは嫌なんですよ。ヘッケルクロスっていう独特のラインが入るやつでね。ブリードした個体もなくはないですけど、いい個体はワイルドに多いから、ディスカスやってる人間は、いいワイルドを探してきて、それからいい交配を自分で考えていくんですよ。何でも掛け合わせりゃいいってもんじゃないんです」
「ハイハイ。でも、ディスカスはメジャーだし、ザリと違って売れる物だから、ストックが悪いってことはないんじゃないの?」
「そう思うでしょ? それが違うんですよ。極端な言い方すればね。ワイルド物は、河川ごとに微妙な水質の違いがあるんです。キーパーはね、それを自分の水槽でじっくり馴らして、自分の水に合うように変えて行くんですよ。ディスカス知ってる問屋とかショップなら、水はそれぞれの魚に合う水に合わせておいてくれるモンです。水合わせはこっちの仕事だから、せめて元の水質のまま保ってくれなきゃ、どうしようもないですよ」
「なるほどねぇ・・・大変だ、そりゃ・・・」
「そりゃあ、そうですよ。だから、いいワイルド物は高いんです。単に魚が高いってことじゃなくて、そういう手間賃まで含まれてんですよ。ま、その後の水合わせは、キーパーの責任だし、そこがキーパーのテクなんですけどね」
「手間賃込み・・・か」
「そうですよ。でも、あそこは全然それをやってなかった。ムカつくでしょ? だいたい、初めて見に行った時と取りに行った時で、違う水槽に入ってるんですもん。ストックは下手くそだは、無神経に水槽換えはするはで、一体どうして2万も取ろうってんだか、気が知れないですよね!」
その後も、Mくんの愚痴は長時間続きました。男は、ウンウンと適当に相槌を打ちながらウィスキーを飲んでおりましたが、話に付き合っているうち、心の片隅にあった難問に向かって、ひと筋の光が射し込み始めていることに気付いていました。


第28章 呑気は損気


 男は、Mくんと別れて家に戻ると、さっそく先日集めたマロンのデータをめくり始めました。さっきの話で、Mくんは「問屋のストックが下手だったから、個体の状態が落ちた」と嘆いていたのです。男は、ディスカスのことなど、まるで知りませんでしたが、あれほどメジャーなディスカスでさえ、そうしたことが起こり得るのだとしたら・・・。
 師匠は、水換え後の突然死について、原因を「マロン自体の問題ではなく、個体の状態ではないか・・・」と推測しました。つまり、水換えという、多少なりともリスクを伴う作業も、本来の体調なら問題なく耐えられるはずなのに、個体の状態が極端に悪くなってしまっていることで、それすら耐えることができず、死に至ってしまう・・・のであろうというわけです。水換え云々ではなく、幸いにして、そうした形で悪化していない個体を手に入れたキーパーは、当然ながら水換え程度で個体を落とすこともなく、そうした形でない個体を手に入れれば、どう工夫しても、死に至ってしまうのではないか・・・と。
 考えてみれば、偶然なことですが、男の飼っている個体は、知り合いだった問屋のお兄ちゃんに頼み込んで、問屋に着いたその日に、その袋のまま買ってきたものでした。もちろんそれは、ただ単に「一刻も早く欲しい」という、ただそれだけの単純なことでしたが、もしかしたら、結果的にはそれが明暗を分けていたのかも知れなかったのです。男は、もう一度突然死の事例をチェックしました。果たして、そのすべてが、ショップに並んでいる個体を購入したものだったのです。やはり・・・。
 次の日、男は、マロンを未だに落とすことなく飼育しているキーパーに電話を入れ始めました。「どういう方法で入手したか?」を知りたかったのです。
「いやぁ、綺麗なザリなんで、ショップに着いた日に電話をもらったら、我慢できなくなっちゃって、すぐ行きましたよ」
「どうしても欲しかったから、予約して入れてもらいましたよ」
どのキーパーも、まるで口裏を合わせたかのように、こう言うのです。男は、ますます正解への自信を確かなものにして行きました。
「師匠が個体に問題があるというのなら、落としたメンバーと俺たちとでは、スタートの段階が違っていたことになるんだ。仮に師匠が、俺たちと同じ感じでザリを手に入れていたなら、この仮説は成立するぞ・・・!」
男は、躊躇なく受話器を取りました。そして、師匠が出るや、挨拶もそこそこに切り出したのです。
「俺のマロン・・・だって? あれは、成田に着いた日に、そのまま抜いて来たんだよ。ほっぽっとくと、ロクなことないからね。1分でも1秒でも早くケアしなきゃ、どうしようもないでしょ」
師匠は、いきり立つ男に対し、まるで当たり前なことを語るかのように、こう答えました。
「やっぱり、ずっと個体をストックしていると、状態は落ちちゃいますよね?」
「ハハハハハ、彼らに悪気はないさ。売り物だからね。でも、彼らの中で、誰がそこまでマロンのストック方法を研究すると思う? 他にもストックしなきゃいけない高い魚はいっぱいいるんだ。1匹落として20万円なんていうのもいるよ。そこまで期待するのは、甘いってもんだよなぁ・・・」
「じゃあ、少なくとも今のままじゃ、マロンは一刻でも早く手に入れないといけないことになりますよね」 「短気は損気・・・っていうけど、マロンは逆かも知れないなぁ。こないだも言ったと思うけど、仲間から引き取ったのは、ほとんどダメなんだ。だから、最近は全部断ってるんだよ。申し訳ないから、理由は言わないけどね」
 男は、マロンを飼育して初めて、長期飼育を成功させるコツを1つ、つかみました。「呑気は損気」「善は急げ」 それは、とにかく早く、自分の水槽へ取り込む・・・という、観賞魚界の「常識」とは、ちょっと違ったものでした。


第29章 まさかの入会拒否


 たった1つ、しかも全然大したことのないことであっても「コツを知る」というのは、嬉しいものです。でも、それとて男一人の力で知り得たものではなく、ひとえに「師匠あっての発見」なのでありました。男は、それまでのデータや情報を再度キッチリとまとめ、数日後、改めて状況を報告しました。師匠は、男の話を聞きながら、「ウン、ウン、それはそうかも知れないなぁ・・・。深く考えてもみなかったよ。それはそうなんだろうね、きっと・・・」と、頷かれています。そして「面白いねぇ。これで一つ、気をつけるところがわかったもんなぁ・・・」と、男の労をねぎらって下さいました。最後の最後まで「な? 俺の言った通りだろ?」とか「俺のヒントが生きたなぁ」という発言は出てこなかったのです。男が、それが嬉しくもあり、不思議でもありました。
 それからしばらく経つうちに、いつしか男は「こういう人間こそ、JCCにとっては絶対に必要だ・・・」と思うようになりました。「私なんかじゃなく、師匠みたいに人間的にも技術的にも秀でた人間がJCCを引っ張って行くべきだ」・・・と。私だけでなく、会員全員が彼と知り合い、彼の人となりを感じれば、きっと私だけでなく、多くの会員がお客さんになるに違いない・・・。そうすれば、結果的には師匠のお店だって潤うはずだし、そうすれば、多少なりとも御恩返しができるのではないか・・・と思ったのです。これは、私にとっても会員にとっても、そして師匠にとっても何らマイナスのない「妙案」ではありませんか!
 ある日、男は師匠に電話をした際、さり気なく、こう切り出しました。他意は全くなかったのですが、さすがに、足元を見るような内容だったので、誤解されたくなかったのです。
「JCCの方も、おかげさまで頑張っているんですが、何も知らない人間ばかりの集まりですから、なかなか上手く行かなくて・・・。もしよかったら、会費はいただきませんので、顧問として加わっていただくわけには参りませんでしょうか? 色々と教えて欲しい人だって、いっぱいいるんです」
ところが、師匠は意外にも、こう答えました。
「ハハハハ、それはイカンよ。俺はいいや。キミたちで頑張ってよ」
 男は、正直面食らいました。言い方には充分気をつかったはずですし、絶対に「それはいいねぇ。ぜひ入れてもらおうかなぁ・・・」と言って下さるとしか考えていなかったからです。
 当時は、JCC以外にザリガニ飼育愛好者の団体などありませんでしたし、ザリが好きな人間なら、入って損はないはずです。ましてやショップの人間なら、こうした会に入っておくことで、顧客自体をつかめるだけでなく、個体の回転だってあがるはずですから、どう考えたって損はないはずだからです。
「あのぉ、決して御迷惑は掛けないつもりなんですが、何かお気に障りましたでしょうか・・・」
「あ、いやいや、そんなことは全然ないよ。ありがとう。でもね、世の中、そうは思わない人だっていっぱいいるさ。俺は確かに、好きでやってる。でも、ザリガニを売ってることも間違いないんだ。だから、俺が入ったら、みんなに迷惑を掛けることもあるよ。だから、友だちってことでいいじゃないか。声を掛けてくれて、とても嬉しいよ。でも、俺は入らない方がいい。気持ちだけもらっておくよ・・・」
 男は、何だか不思議な気持ちで電話を切りました。男が師匠の立場なら、一も二もなく入っていたでしょうし、下手すりゃリーダー格になって、それこそ「親分風」を吹かせていたかも知れません。しかも、自分からでなく、相手から「入って下さい」って言っているのです。堂々と入って、何の後ろめたさがあるのでしょう。でも、師匠はその申し出を断った・・・。男は、自分の言い方を疑いました。何か失礼があったのだろうか・・・? でも、師匠の声は明るく、御気分を害された気配など、微塵もありませんでした。そして、その後も、本当に普通に、付き合いを続けてくれていたのです。
 男はこの時、師匠の真意などつかめようはずもありませんでした。師匠の御真意、そして大いなる配慮に気付くためには、まだまだ未熟すぎたのです。


第30章 雪辱戦のゴング


 勧誘こそ失敗しましたが、師匠と男との間には、またいつも通りの日々が流れました。わからないことが起これば一生懸命調べたり観察したりし、それでもラチが開かなければ、男はその疑問を師匠にぶつけました。師匠は、わかることなら懇切に教えて下さいましたし、わからなければ「わからない」とおっしゃって下さいました。調べればわかることを安易に質問した時には、ビシッとした「教育的指導」が帰ってきました。そんな優しく、そして厳しい指導のおかげで、男も、だんだん細かい部分から個体を見、チェックができるようになっていました。
 このころ男は、もう一度本気でマロンを飼いたいと思い始めていました。その時、男の水槽にいるマロンは、どれも問屋やショップから「引き取」ってきた、いわば「売れ残り」個体ばかりでしたし、ずっとマロン飼育を途切れさせることこそなかったものの、一から気合いを入れて取り組む勇気もなかったのです。元気な個体を飼育したい気持ちはあっても、「それを殺してしまったらどうしよう・・・」という想いが、男を「売れ残りマロン専門キーパー」にとどめていたのです。このままじゃ、言い訳を考えるばかりで進歩がない・・・。
 ある日、男はとうとう師匠に持ちかけました。
「あのぉ、もう一回、真剣にマロンをやりたいんですけど」
「おっ! そうか! やるか・・・。よし、じゃあ、次の便の個体で行こう。ウチに今いる個体でもいいけど、どうせならいい個体で始めたいでしょ?」
「ええ、お願いします! いつになりますか?」
「今月はたぶんないから、来月の頭ごろだろうな」
「わかりましたっ! じゃあ、お願いします!」
 男は、心の中で、静かに拳を握りました。やる気が、沸々とわき上がってきました。何も知らずに、ほんの出来心のような軽い気持ちでマロンを手にし、3日目の朝に迎えた怒りと落胆と虚脱感・・・。男のザリ・ライフは、すべてこの日の朝から始まっていました。この日に感じた悔しさが、すべての力の源泉でありました。いつか、あの悔しさを濯ぐために、男はここまで頑張ってきたのです。ここでキッチリとカタを付けずして、男の気持ちはどう晴れるというのでしょうか?
「今度こそ、言い訳なしの本気勝負だ! 言い逃れの一切できない個体を相手に、自分の全身全霊をぶつける勝負なんだ・・・」 男は、オーバーでも何でもなく、本気でそう考えていました。導入まで半月足らず・・・。男の気合いは、いよいよ「動き」となって表れてきます。
 次の日曜日、男の水槽スペースに、真新しい90センチ水槽が運び込まれました。メインの水は、別の水槽で前日から回っていました。種濾材や種底砂は、すぐに個体を入れても問題なく使えるくらいまで立ち上がっていましたし、新しくセットし直してから一旦パワーダウンしても、マロンが入ってくるまでには、充分回復できるだけの時間的余裕がありました。その濾過システムは、5万円近くかけた最大パワーの外部濾過器を筆頭に、3つの異なる濾過システムが、万全な濾過と送気を続けています。男は、考えられるすべての工夫を凝らして水槽を立ち上げると、自分の飼育しているマロンのうち、最も状態のよい個体を「露払用」として、その水槽に投入しました。「こなれた環境」にしておくことが、いかに導入直後の個体にとって大切かは、ヤビーでの飼育経験が男に教えてくれていたのです。露払用個体での「水槽馴らし飼育」は、順調に進みました。こなれた環境にするための水換えや底砂掃除も、順調にクリアしました。水槽が、徐々に「ただのガラス箱」から「生き物の家」へと変わってきていることがわかりました。
 月が変わってすぐ、師匠から電話が入りました。いよいよ個体導入です。
「来週の木曜の便で入ってくるよ。成田近いでしょ? だから現地で会おう。今回の便のは、俺も何匹か買うんだ。頼まれてるのもあるし・・・。通関終わって出てきたヤツをすぐ抜いちゃうからね。すぐに自分の水槽に入れられるように、用意しといて!」
「ハイ、もう、準備できてます!」
男は、気合いたっぷりで答えました。いよいよ、リベンジマッチが始まるのです。


第31章 マロン・リレー


 前日、男は朝から、水槽の「仕上げ」に追われていました。半月の間、よく頑張っていた露払用個体を、元の60センチ水槽に戻し、軽く水換えをしながら、丹念に底砂の汚れをすくい出して行きます。余計な汚れはすべて出し、充分な濾過バクテリアが定着しているベストな水槽が、男の前で静かに水を回していました。否が応でも、手に力が入ります。
 翌朝、男は、水槽の最終チェックを済ますと、車に飛び乗り、成田へと急ぎました。師匠との待ち合わせ場所に着くころには、男の心臓も破裂しそうな鼓動を続けています。
 師匠が到着したのは、男が着いてから1時間近く経ってからでした。
「すまん! 首都高が渋滞で・・・。今日の朝には成田に着いているらしい。遅くても、昼前には通関終わって出て来るぞ・・・」
「はい、わかりました。すぐ入れられるように、用意してきてます」
男と師匠との会話は、ほとんど軍隊での上官と兵卒との会話みたいでありました。でも、そうした雰囲気がかえって心地よく感じられるくらい、男の心は緊張し、そしてワクワクしていたのです。
 それからさらに1時間くらい経ったでしょうか? 2人の前に、1台の青いほろ付きトラックが走ってきて止まりました。中から、若い兄ちゃんが2人、挨拶をしながら出てきます。
「さぁ、行くぞ!」
「ハイ!」
男は、師匠の後に続きます。師匠は、二言三言、兄ちゃんに声を掛けると、ドカドカ荷台へと入って行きました。そして、兄ちゃんの1人に手伝わせると、発泡スチロールを3箱、トラックの外に運び出しました。心臓がバコバコと音を立てている男に引き替え、師匠は平然としています。まるで、いつも通りの朝のコーヒーを楽しむかのような、そのまま鼻歌でも出てくるのではないかとさえ思えるような顔で、兄ちゃんたちと世間話をしながら、作業をしていました。
「やっぱ、これがプロなんだろうなぁ。いちいち心が躍っていたら、仕事にならんもんなぁ・・・」
男は、感心しながら師匠を眺めていました。そんなふうに眺める男の姿を気に留めるふうでもなく、師匠は相変わらず、兄ちゃんと談笑しながら、せっせと梱包を解いていました。
「ほぉ、今度のは、いいねぇ・・・」
手が止まり、しばらくの間、厳しい視線が発泡スチロール注がれた後、いつもの柔和な顔に戻った師匠は、こう兄ちゃんに声を掛けました。また、一瞬張りつめた空気に、また柔らかさが戻ります。きっと、師匠のお眼鏡にかなったのでしょう。
「さぁ、ボーッとしてないで、すぐに抜いちゃってくれよ! こいつらだって、今日はこのあと2軒も配送が残ってるっていうから、待たせちゃ可哀想だ」
男は、ドキドキしながら、発泡スチロールの中を覗きます。中には、通関を終えて出てきたばかりのマロンが、1匹ずつ丹念にパッキングされていました。
 こういう荷姿のマロンは、今までも何度か見たことがありました。しかし、こんなにピチピチと動いている様子は、見たことがありません。まるで、水揚げされたばかりイセエビのような溌剌さが、その発泡スチロールの中に満ち満ちておりました。
「どうだ? 全然違うだろ? ここで抜けるかどうかで、個体の調子は全然違っちゃうんだ」
「ええ、そうですね・・・」
男は、会話をするのも面倒に思えるほど、中の個体に見惚れ、そして熱中していました。今まで見てきたマロンとは違うとしか思えないくらい、生き生きしているのです。
「こんなのが、3日たったらヘバッちゃうんだから。お前らもちゃんとストックしてくれよなぁ・・・」
師匠は、相変わらず兄ちゃんたちと談笑しながら、それでも厳しい眼で個体を選び、次々と抜いていました。男も、一生懸命に目を凝らしましたが、どれにしたらよいのか、なかなか決められないでいます。そうこうするうちに、師匠は自分の分を抜き終え、タバコをくゆらしながら、男を急かしました。男も、何とかしよう・・・と思い、ヒゲの綺麗に伸びた1匹を取り出してよく見ようと思った瞬間「パシッ!」という音をたてて、そのマロンが袋の中で逃げ回ろうとしました。体長は10センチちょっと。アメザリですら、こんな音で尾扇をたためる個体は少ないはずです。それだけのパワーが、男の心を揺さぶりました。
「じゃあ、これでお願いしますっ!」
男は、躊躇なくその個体を手元に引き寄せました。師匠は、その様子を見ていましたが、
「よしっ、それでいいなら、それで決まりダナ!」
と言うと、笑顔で兄ちゃんたちに礼を言いました。兄ちゃんも師匠も、また、当たり前のように発泡スチロールを車に積み込み始めます。男も、慌ててその手伝いをすると、まずは師匠と一緒に、トラックの出発を見送りました。  トラックの姿が見えなくなると、師匠はもう1回、タバコに火をつけて、茶目っ気たっぷりに、こう言いました。
「さぁ、これからスタートだな。成田抜きだから、これで落としたら、言い訳できないぞぉ」
「ハイ、わかってます。絶対落としませんよ。これで仔を採って見せますから・・・」
「そうか、実現するといいな。しっかり面倒見てやってね」
「ハイ!」
師匠は、タバコを吸い終わると、笑顔で車に乗り込み、短いクラクションを鳴らすと、高速道路へと消えて行きました。
「さぁ、俺も行こう・・・」
男も、自分の車に乗り込むと、今や遅しと待ちかまえているであろう新水槽に向かって走りました。
 成田から、男の家までは30分かかりません。師匠と別れて1時間も経たないうちに、男とマロンは、新しい水槽の前に立っていました。
「さぁ、ここがお前の新しい家だ。考えられるすべての装備は全部スタンバイさせてある。あとは、俺とお前との真剣勝負だ。よろしく頼むぜ!」
男は、心の中でそう語り掛けると、軽い温度合わせをしてから、放してやりました。
「ピシッ!」
小さい尾扇をフルに唸らせ、マロンは底の方へと沈んで行きました。飛行機からトラックへ、トラックから車へ、そして車から水槽へ・・・。尾扇を唸らせる元気なチビ・マロンは、入国12時間後には「永住の地」で疲れを癒していたのです。




黙考の巻(第32章〜)に続く