〜怒涛の巻〜
最終更新日 平成13年1月16日




第20章 くれくれ会員


「うわぁ、凄いや! こりゃあ嬉しいでしょ! だって電話の声が違ってたもの」
 次の日曜日、男の家に来たMくんは、手紙を読むなりこう切り出しました。なるほど、電話で知らせた男の声は上ずっていたかも知れません。でも、男にとって、この手紙は、それだけのうれしさをもってしても、余りあるものだったのです。
「こういう人がいるんだから、もう我慢することもないですよ。くれくれ会員なんか、切っちゃったらどうです? どこの世界でもいるんですよ、そんなヤツ・・・。どうせ長続きなんかしないし、もらえるものだけもらえればおサラバなんですから、いいじゃないですか」
「まぁ、そりゃそうだけどさぁ・・・」
 このころ、男は、ある悩みを抱えていました。
 会員数は、少しずつではありますが増える傾向にあって、これ自体は、とても嬉しいことでした。しかも、今回「アクアライフ」に載せていただいたことは、会員数にとっても、充分な追い風でありました。もちろん、Nさんと出会えたことが、男にとって一番嬉しいことではありましたが、会員が少しずつでも増えていることも、嬉しくて仕方ないことでした。
 こんなふうでありましたから、男は、会員が「見たい」といえば、家族の迷惑を顧みず自宅へと招きました。単に本数が多いだけで、大したことのない水槽群であることは、男自身が一番よく知っていましたし、「さすがですねぇ、凄いですねぇ」などという、会員からのお褒めのお言葉を頂戴するたびに、精一杯の笑顔でお礼を言いながらも、どこかやりきれない気持ちが男の中にはあったことも、間違いのない事実でした。それでも、ザリ仲間と接し合い、情報や経験を交換し合うことは、何物にも代え難い喜びだったのです。
 男は、せめてものお礼にと、自分が繁殖した個体を、どんどん持って帰ってもらいました。元より、すべてを飼い続けることなどできないわけですし、こんな片田舎までわざわざいらして下さった方が、そんな個体で喜んでいただけるのなら、お安いものなのです。しかし、男のこうした考えには、大きな「ワナ」が潜んでいたのです。
 男は、そうしてわざわざ来て下さったメンバーさんに、ぜひ機関誌へ参加してもらおうと、お電話やお手紙を差し上げました。また、みんなで研究し合う勉強会みたいなものを開こうと、声を掛けました。しかし、帰ってくる返事は「いやぁ、私なんか経験も技術もないから、とてもダメですよぉ」とか「忙しくて、時間がとれません」というものばかり・・・。でも、「今度は、青いヤビーを飼育してみたいんですけど、何匹か分けていただきますか?」という連絡は、どんどん入ってきました。男は、自分の持っている個体を差し上げることに、何ら抵抗はありませんでした。でも、会は、メンバー同士が知識や経験を持ち寄り、ともに飼育技術を向上させて行くためにあるものであるとも考えていました。個体だって、あくまでもそのための研究材料として提供しているつもりだったのです。
 しかし、受け手からすれば、そんな理想など、ただの題目以外の何物でもなかったのでしょうか? メンバーのうちの何人かは、数回、男のもとを訪れて個体を持ち帰ると、あとは全く連絡をしてきませんでした。年度が替わり、更新のお知らせをお出ししても、男のところに新しい個体がいないことを知ると、新たな更新手続きをして下さることはありませんでした。
 「結局は、タダでもらえる個体がお目当てなんですよ。そりゃそうだ。ショップじゃ1匹5000円もするのが、会費1000円でもらい放題なんだから・・・。」
 Mくんは、そう吐き捨てました。男も、うすうすそんな気がしていました。でも、仮にそうだからといって、そういうメンバーを切り捨てては、会員数が1ケタになってしまいます。それでは、元も子もないのです。
「確かにそうだろうよ。でもさ、生き物が好きじゃなきゃ、わざわざ会費払って会になんて入らないぜ。どうせ個体は俺が殖やしたものなんだから、別に損するわけでもねぇだろ? そん中で1人でも、ザリにハマってくれる人がいればいいじゃんか。動機はどうだって、飼育人口が増えることには違いねぇんだから・・・。」 男は、Mくんの意見に対し、いつもそういう言い方で答えていました。もちろん、男自身だって、心の底では、Mくんの考えをわかっていました。でも、そんなことで、ただでさえ小さな飼育人口を、さらに小さいものにはしたくない・・・とも考えていたのです。
 それが、今回の掲載がきっかけで、Nさんを始めとした、多くの方々と知り合うことができました。確かに、Mくんの言う通り、無理してそういう人たちと付き合うこともなかったのです。会の活動だって、一歩、理想に近づいたはずなのです。多少強気に出たとしても、独りぼっちになってしまうことはなくなりました。でも・・・。
「ま、いいじゃないか、わざわざ来てくれるんだから・・・。どうせタダなんだから、気にしねぇってことよ」
 男は、やっぱりそう答えました。
「まったく甘いって言うかなんというか・・・。つまらないところで優しいからなぁ・・・。何かあっても、知らないですよ!」
 Mくんは、やはり納得行かなそうに、そういいました。男は笑って聞き流していましたが、それから数カ月後、事態はMくんが懸念していた通りの方向へと動き出していってしまうのです。


第21章 8800円の青ザリ


 会員数も15人を越え、内容こそショボいものの、機関誌も少しずつ賑々しいものになってきました。何人かのメンバーは、それぞれの思いや考えをレポートしてくれるようになりました。そして、Nさんの合流は、機関誌の内容に「アカデミックなテイスト」を加えてくれました。
 そんなある日曜日のことです。男は、久しぶりにMくんに誘われ、ショップ巡りをすることにしました。Mくん自慢のディスカスが頃よく成長したので、新しいペア相手を探すためです。男は、元々大型魚フリークだったので、きらびやかな円盤たちにはほとんど興味が湧きませんでしたが、日ごろ先輩風ばかり吹かせて、何もしないでいるのも申し訳なかったですし、たまには、目の保養もいいかなぁ・・・程度のつもりでMくんの車に乗り込んだのです。
 昼下がり、何軒か回った県内のショップには、Mくんの納得するようなめぼしい魚がいなかったらしく、やがて車は、都内へと入って行きました。男は「これだけやったって、どうせお前じゃ、大した仔は採れねぇんだろ? どうせやるなら、シュミット・フォッケみたいに名を残せなきゃな〜」などと助手席で軽口を叩きながら、各ショップでのザリの動向などをメモしておりました。ホント、気楽な遊山気分だったのです。
 ところが、まさに日が暮れようとしている時に入ったあるショップで、男の身体は凍り付きました。何と、自分のところで殖やした青ザリが、8800円の値札を付けて売られているではありませんか。
「そ、そんなぁ・・・」
 そのころ、白ザリこそ数多く見られるようになっていましたが、青ザリを持っている人間は、極めて限られていました。雑誌の新着で紹介された個体は、たかだか3センチ程度の大きさだったにも関わらず、4万円で取引されていました。男自身、そんなザリに手など出せることなどあろうはずがなく、さんざん情報を集め歩いた結果、青ザリの捕獲経験があり、その血統を残しているという方の存在を知って御家庭にお邪魔し、お話を伺った時に2ペアほどいただいて来ただけなのです。そして今年、やっと最初の仔が採れたばかりなのでした。元が珍しいだけに、男がそのザリを飼っていることを知っている何軒かのショップからは、その個体を譲って欲しいという声が掛かっていましたが、自分が飼育するために快く譲って下さった、その方の御厚意を踏みにじることだけはしたくなかったので、すべて断ってきたのです。そして、「どうしても飼ってみたい」というメンバー数人以外には、個体を差し上げることもしませんでした。それが、目の前で売られている・・・。
 オタク人間の悲しい性・・・なのでしょうか? 男は、目の前の個体が、自分の殖やした仔であることを瞬時に見抜いていました。青の乗り方は、雑誌に載った系統の個体と全然違いますし、種親をいただいた方が使われていた水は軟らかいので、この大きさでは、ここまで色が白っぽくなるはずなどないのです。しかも、自分ですくって手渡した時に、触角が不揃いだったことを詫びた、そのままの触角がついていたのでした。
「これ・・・、もしかして・・・」
 ディスカスの水槽から戻ってきたMくんが、小声でつぶやきました。さすがはディスカスで目を鍛えている彼のこと、やはり瞬時に見抜いたのです。
「ああ、間違いねぇな・・・」
男は、顔を上げることなく答えました。男の心の中では、何ともいえない怒りと空しさとが、渦を巻いて暴れまくっておりました。自分自身、何を、どうすべきか・・・というところまで思い付かず、ただただ、水槽の前に立ち尽くしているばかりでした。
「いやぁ、このザリガニ、綺麗ですねぇ。アメリカザリガニなんですか?」
 こんな時、人あたりのいいMくんは、実に軽やかな動きを見せるものです。すっかり気が抜け、言葉を失ってしまっている男を後目に、まるで何事もなかったかのような顔で、店長さんと話し始めました。そして、時折、大仰に驚いたり、ヨイショして見せたりしながら、このザリが、自分で繁殖したのだというお客さんによって持ち込まれたこと、そして、反応がよければ再入荷できるし、リクエストがあれば、ヤビーも入るということも聞き出しました。。男は無愛想な顔で、そしてMくんはニコニコしながら店長さんと挨拶を交わして、そのショップを後にしました。
 帰りの高速道路・・・。車の中は、やっぱり沈痛な空気が満ち満ちていました。いつもは、広くてまっすぐで走りやすい東関道も、こんな時は、変化がないだけうっとうしく感じられるものです。
「やっぱり、やられましたね・・・」
「ああ・・・」
「倍乗せが普通でしょうから、アイツ、3匹分で1万はもらってるはずですよ」
「だろうな・・・」
「会費の10倍だもん、いい儲けですよねぇ。でも、あげたの4匹でしょ? 再入荷するっていうのは、どういうことなんだろ? ヤビーも入るって言ってたし・・・。まさか、また取りに来るんじゃ?」
「かもな・・・」
「そしたらどうします? 高校ん時みたいに、正座させちゃいましょうか?」
「バカ言えよ・・・」
 男は、喋るのもイヤな気分になっていました。信じて譲った人間に裏切られた怒りというよりも、せっかく自分を信じて個体の種親を分けて下さった方に、申し訳なくて仕方ありませんでした。そして、考えようによっては充分に予想できた今回の流れを、みすみす引き起こした自分に、腹が立って仕方ありませんでした。  Mくんも、さすがにそんな男の気持ちを察したのか、しばらく黙っていましたが、それでも我慢できなくなったのか、こう切り出しました。
「ここらへん、もっと徹底して、俺たちはアマチュア路線で行きましょうよ。カネが絡むと、絶対ドロドロするモンです。言いたいこともやりたいこともできなくなっちゃう。ディスカスの世界でも、そういうヤツ、いっぱいいますよ。ファームごとにブランド付けちゃったりしてるから、余計です。下手すりゃ、ショップぐるみでやってるくらいですもん。いいじゃないですか、そんなヤツなんていなくたって・・・。そういう連中と付き合わなきゃ伸びられないジャンルなら、やめた方がいいッス」
「そうだな・・・」
「ハハハ、そんな怖い顔してて、おまけに態度までバカでかいんだから、誰もに好かれようってったって、無理ですよねぇ。いいんですよ、媚びなくたって・・・。こっちが真面目にやってりゃ、いつかそういう人間たちの集まりになりますよ。そういう会にしたいんでしょ?」
「うん・・・」
 果たして、それから数週間後、例の会員から、電話が掛かってきました。聞けば、水槽の水換えで、触角の切れたのばかり3匹落としたが、気合いを入れて飼い直したいので、あと3ペアくらい分けてもらえないか・・・とのこと。男は、今にも爆発しそうな感情を何とか抑えて、こう答えました。
「すいませんねぇ。今、青ザリはいないんですよ。でも、東京の◯◯というショップならどうです? 確か、1匹8800円で出てましたよ。そちらの近くでしょうし・・・」
相手は、明らかに驚いたようでしたが、まるで初耳のような言い方をし、じゃあ、出掛けてみましょう・・・と言って電話を切りましたそして、それ以降、二度と男の家に電話を掛けてくることはありませんでした。次の年の更新手続も、やっぱりされませんでした。


第22章 水換えで「死ぬ」


「うわぁ、キッツ〜、やっぱ、性格よくないですよ。友達少ないはずだよなぁ〜」
次の日、電話でのやりとりを聞いたMくんは、大笑いしながらこう言いました。
「だって、今さらどうしろって言うんだよ。呼び出せってワケにはいかねぇだろ」
「ま、そりゃそうですけど・・・。ホント、下手に言葉使う商売していると、嫌味ヒトツも妙にスジ通っちゃうから、困っちゃうよなぁ〜」
「まぁ、いいじゃねぇか、これ以上突っ込んだら逆恨みされるぜ、きっと・・・」
「アハハハ、個体あげて恨まれるようじゃ、しょーもないスよ」
「ハハハハハ。そりゃそうだ」
「でも、水換えで落としたっていうのも、すごい言い訳ですよね。もっとまともな言い訳考えればいいのに、バカだよなぁ・・・」
「でもよぉ、今回のは大ウソにしても、水換えで落とすっていうの、あながちナシとは言い切れないんだよなぁ・・・」
 確かに、男はそのころ、これについて少し気になっていました。さすがにアメザリでは考えられないことでしたが、マロンやレッドクロウなどでは、時たま耳にすることだったからです。でも、「水換えが原因だ」という確たる証拠は、何もありません。とにかく、買って来てから1〜2週間後、水換えをしてみると翌朝死んでいる・・・という事例が少なからず出てきていたのです。
 男は最初、水質の問題ばかりに目が行っていました。何か悪い物質があるに違いない・・・と考えました。水換えの翌日に死ぬわけですから、原因が水であることは明白なはずなのです。でも、何カ月も飼育している個体には、そうしたトラブルが一切出ていないのも不思議でした。水に問題があるのであれば、すべての個体に同じ症状が出ないとおかしいのです。
「おい、ディスカス飼ってて、水換えで落とすこと、あるか?」
「バカ言わないで下さいよ。そんなんで落とすくらいなら、とっくに辞めてますよ。俺は今年、何ペア採ってると思ってるんですか。アホらしい・・・」
「そうだよな、ごめんごめん。でも、一般論として、水換えて落とす可能性があるかってことだよ」
Mくんは、しばらく黙って考えていましたが、ポツリとこう切り出しました。
「ディスカスやってる人間ならすぐわかることですけど、水換えってもんは、最高の手段ではありますけど、必ずしも万全な手段じゃないんですよ。水換え水換えって言いますけど、換えればいいってもんじゃないんです。水換えすれば、どういう形であれ水質が変わるわけですから、ものすごい弱ってる個体なんかにすれば、かえってダメージを与えちゃうことだってあるんです。縁がないかもしれないけど、ディスカスやってる人間は、新しい水ですら、浸透膜通すとか調整剤入れるとかして、とにかくきちんと作ってから入れるんですよ。そっちみたいに、いくら井戸水だからって、ホースでジャーッとなんて、絶対やりません」
「なるほど! これはあるかも知れねぇぞ!」
男は、ヒザを叩いて顔を上げました。男には、ある仮説が浮かび上がったのです。
「そうだ、原因は水質じゃねぇんだ。新しいっていうんで、とにかく気をつかって、必要以上に水を換えちゃうから、入ってきたばかりのザリからすりゃ、次から次へと違う水につけ込まれているってことになるわなぁ。体力が弱ってれば、こりゃあキツい変化だぜ。これなら考えられるだろ?」
Mくんは、男の顔をしげしげと見ていましたが、男の口調を遮るように、こう言いました。
「確かに考えられますよ。でも、だからって換えなきゃいいってことにはなりません。換えない限り、水は確実に悪くなります。それを放っておくわけにはいかないでしょ? 絶対に換えなきゃいけないとすれば、今のは、あくまでも量とかバランスとかで考えなきゃいけないと思うし・・・」
「そうだよなぁ・・・」
男は、すっかり詰まってしまいました。やはり、こういう時になりますと、経験者は強いものです。男の10倍も100倍も水に神経を使うディスカスを飼育するMくんの論に、男はグーの音も出ませんでした。ただ、水を換えるという「善意」が、ともするとザリに対して「追い打ち」を掛けていたかも知れない・・・という可能性は、おぼろげなりとも見えてきたのです。
「バランス・・・ねぇ」
解かねばならない難題がまた一つ、男の前に立ちはだかってきたのを、男は気付いていました。


第23章 下手の横好き


「そちら、千葉にお住まいですよね? 神奈川県の川崎って、近いんですか?」
ある日、仕事を終えて帰宅した男の家に、一本の電話が掛かってきました。相手は、当時のメンバーの中では最も積極的に頑張っていた、九州の学生、Mさんです。
「近いといっても、2時間くらいはかかりますねぇ・・・」
「2時間? じゃあ、ぜひ行って下さい。すごいショップがあるらしいんですよ。ボクは電話で話しただけなんですけど、御主人は、かなり色々知ってるみたいですし、いろんなザリがいるみたいなんです」
「はぁ・・・」
 男はこのころ、ショップ巡りというものをほとんどしていませんでした。時間を掛けてさんざん見て回っても、並んでいる個体は変わり映えしないものばかり・・・。おまけに、店員さんの珍妙極まる「飼育指導」の数々に、いささか閉口していたのです。肝心な情報も、馴染みのショップで得られる以上のものはありませんでしたし、個体なら、そこの店長が、常連の顔パスで、ほとんど仕入値同然で取ってくれていたことも、男の足を鈍くするには、充分以上の「効果」がありました。先日の「8800円青ザリ事件」も、男にとっては相当堪えたものでしたし、もはや男にとって、ショップは馴染みの1軒だけでよかったのです。
「なぁ、川崎のLって店、知ってるか?」
男は、ふらりと遊びに来たMくんに、そう尋ねました。
「知りませんねぇ・・・。名前から考えて、鳥屋さんかなんかじゃないですか? 俺、鳥系は興味ないからなぁ・・・。鳥のことなら、そっちの守備範囲でしょ? もしかして、また鶏とかクジャクとか、始めるんですか?」
「バカ言え! そんなコトしたら、離婚される以前に、ウチ追い出されちゃうよ!」
話題は、それ以上続きませんでした。男も、ショップ巡りをするくらいなら、文献の和訳をした方がいいと思っていましたので、Mくんが知らないくらいなら、問題もないだろうと思っていたのです。
 ところが、それから数日経った日のこと、九州のMさんから手紙が届いたのです。ビックリして封を切ると、1枚のコピーが入っているではありませんか。

・・・これが、先日お話しした「L」というショップの広告です。何気なく見ていた小動物の雑誌に載っていました。電話をしてみたけど、すごい人です。ぜひ、行ってみて下さい・・・

コピーに添えられたメモには、Mさんの「熱意」が溢れかえっておりました。そして、
「〜世界のザリガニ〜 ザリガニは赤だけではありません。さぁ、一緒に、いろいろな色のザリガニを作り出してみませんか?」
と銘打たれたその広告には、今まで男が接したことのない「ザリの香り」が満ち満ちておりました。
「この店、ただものじゃない!」
男は、ピーンときました。文章で飯を食っている男は、このキャッチコピーに、並々ならぬ「チャレンジング・スピリット」を感じ取ったのです。ザリに対してどうでもいいような扱いしかしていないショップなら、わざわざ広告を出してまで、こんな言葉を使おうはずがありません。文は人なり・・・。傲慢な文章しか書けない傲慢な男は、自分が傲慢であるがゆえに、文章というものが、自分の性格を表す「鏡」であることをよく知っていたのです。男は考えました。こういうキャッチコピーを打ち出す人間がやっているショップなら、きっと「何か」を得られるに違いない・・・と。
 男は翌日、会社の休憩時間を使って、公衆電話に飛びつきました。そして、電話に出てきた奥様らしき方に用件を伝えると、御主人に代わって下さったのです。
「あのぉ、私は、ザリガニが好きで色々飼っている者なのですが、なかなか上手く行かない種類も多くて、ぜひ一度そちらにお伺いして、色々お話をお聞きしたり、個体を売っていただいたりしたいのですが・・・」
「あぁ、そうですか。大したことないんですけど、よろしかったら、ぜひ来て下さいよ」
電話の奧の声は、初めての相手であるにも関わらず、とても親しげに聞こえました。生まれてこの方、人間関係の取っ掛かりをつかむのが大の苦手だった男にとって、これは、とてもありがたいことでした。
「いやぁ、いろんな種類を飼っていらして、とてもお詳しいと友人から伺ったものですから・・・」
「いやぁ、とんでもない! 好きは好きで、カッカしながら頑張ってんだけど、なかなか上手く行かなくてねぇ・・・。まぁ、下手の横好きみたいなもんでねぇ・・・。とにかく、その日は待ってますから、気を付けてきて下さいね。場所がわからなかったら、気軽に電話してくれれば大丈夫!」
男は、丁寧に礼を言い、電話を切りました。
「下手の横好き・・・か」
 プライドという感情を持つ人間にとって、自分の趣味を「下手の横好き」と笑って言い切れる人など、そうそういるものではありません。謙遜として使うことならいくらでもありましょうが、ごく自然体で、さらりと使える人となれば、やはり少ないはずです。かといって、決して商売トークには聞こえませんでしたし、こういう言葉を好んで使う人特有の「卑屈さ」も、全く感じられませんでした。きっと、自分の趣味に精一杯立ち向かいながらも、自分の位置を知り、自分の「分」をしっかりとわきまえているからこそ、何の迷いもなく、こうした言葉を使えるのでしょう。知識も経験も全然大したことないくせに、プライドだけは人一倍高いクチであった当の男にとっては、使おうとしても使えない言葉でありました。
「もしかしたら、すごい人間かも知れないぞ・・・」
 男は、まだ見ぬこの御主人の姿を、あれこれと思い巡らせていました。そして、約束した次の日曜日が、待ち遠しくて仕方ありませんでした。


第24章 高鳴る心臓


 日曜日の午後1時ちょっと過ぎ、小田急線向丘遊園前駅・・・。ちょっと古びた遊園地行きモノレールの高架線下に、男の姿はありました。日ごろ、いつもはああだこうだと理由をつけては、いっこうに布団から出ようとしないぐうたら人間も、今日は家族の誰よりも早く起きていたのです。いや、眠れなかった・・・という方が正しい表現かも知れません。男の手には、しょ〜もないダンナが恥をかかないよう、奥さんが気を利かせて持たせた洋菓子の袋がぶら下がっておりました。
「え〜っと、平のダイクマの方まで行って下さい」
男は、タクシーに乗り込むと、あらかじめ教えてもらったままの言葉を、運転手さんに告げました。運転手さんは、返事もせずに車を走らせましたが、馴染みのない人間にあれこれ話し掛けられるのが苦手な男にとって、愛想のない運転手さんは逆に有り難く、沈黙の時間は貴重なものでした。
 窓の外に次々と流れて行く見慣れない町並みは、男の心を否が応でも高めて行きます。男は、頭の中に、これから出会う御主人のこと、ザリがいっぱいいるであろうショップの水槽のことなどを、次々と思い浮かべて行きました。「精一杯、にこにこしなきゃ・・・」男は、いつもこんな時、自分の性格や人相を恨みました。
「どこ行ったらいいの?」
そんな沈黙を破るかのように、前の運転席から、無愛想な運転手さんの声が響きます。見れば、前方には、ダイクマの看板が見えていました。
「ハ、ハイ。その先の十字路を右に曲がって、しばらく行くとコンビニがあって・・・」
男は、慌ててポケットの中の紙を取り出し、御主人から電話で教えてもらった行き方を、そのまま運転手に伝えます。
「ああ、そう」
運転手は、答えるのもうっとうしいような声で返事をすると、また、黙って車を走らせました。タクシーの中には、再び沈黙の空気が流れました。
「着いたよ」
運転手の声に慌てて顔を上げると、男は、そそくさとお金を払ってタクシーを降りました。見たこともない通りには、見たこともないカラーリングの路線バスが、次々と通り抜けて行きます。男は、キョロキョロと周りを見回しておりましたが、よく見ると、ちょっと先に、水槽や鳥かごがいっぱい並んだ小さな店があるではありませんか。まさしく、この店に違いありません。男の心臓は、ドクドクと音を立てて動き出しました。ついに、ついにやってきたのです。Mさんがいう「すごいショップ」が、今、目の前で男を待っているのです。ショップ巡りは、今まで何度も、それこそゲップが出るほど経験してきたことでした。そして、その大半は、失意と落胆だけをお土産に持ち帰っただけでした。「ウチは他と違うから・・・」という店主の自慢げなセールストークにも、いつしか心を奪われなくなっていたのです。
「こんなドキドキするの、いつ以来だろう・・・」
男は、高鳴る心臓を抑えながら、ふとそんなことを考えました。そして、とにかく自分の心を落ち着かせようと焦っていました。万が一、期待外れだった時には、今まで以上の大きな落胆が、男に襲いかかることは間違いなかったからです。電車に揺られる時間は優に2時間を越えていましたし、大都市東京を見事に横断しながらの「旅」だったわけですから、それも当たり前でしょう。
「ごめん下さい」
男は、少々古びた、走りの悪い入り口のドアを開け、店に入りました。中には、小鳥たちのさえずりに加え、様々な小動物たちの鳴き声と、水槽のエアー音が響きわたり、いつもの熱帯魚ショップとは違った雰囲気が満ち満ちています。そして、男は、どうにも待ちきれないような表情で水槽を眺め始めました。いるいる・・・。男は、目を皿のようにして、水槽を見つめています。でも、そこにいるのは、ヤビー、マロン、アメザリ白青、レッドクロウ・・・。どこでも目にできるザリたちばかりでした。男の心の中に、一瞬、嫌な空気が立ちこめて行きます。
「あ、いらっしゃいませ」
そんな男の姿をやっと見つけて、奥から出てきたのは、リスのケージを洗っていた若い店員さんでした。そして、男が言葉を発するか発しないかのうちに、
「あ、ザリガニの方ですね? 千葉の・・・」
「あ、ハイ」
「聞いてますよ。ちょっと待ってて下さいね」
若い店員さんは、そういい残すと、奥に入って行きました。男は、一礼をしてその姿を見送りましたが、何ともいえない不安な気持ちが、どんどん広がってくるのを自覚していました。結局、ちょっと品揃えが多い以外、普通のショップと変わらないのではないか・・・と。あれほどドキドキしていた自分を、ちょっと悲しく思うようになり始めていたのです。
「いやぁ、こんにちはぁ。遠くから、大変だったねぇ」
奥からこんな声が聞こえ、男は、ハッと顔を上げました。


第25章 夢の部屋


 そこに立っていたのは、見るからに優しそうな御主人でした。男は、慌てて、「あのぉ、先日お電話を差し上げました・・・」と挨拶を始めましたが、おじさんは、そのままツッカケを履いて出てくると、水槽を指さしてこう言いました。
「ハハハハ、せっかく来てもらったのに、大したものがいなくて、ガッカリしてるでしょう。あんまり売れるもんじゃないからねぇ。こっちは、そんなに置いてないんですよ」
「こっち・・・ですか?」
「まぁまぁ、上がって下さいよ。ここじゃ話もできないからねぇ・・・」
 御主人は、戸惑う男に、笑顔で外の玄関を指さしました。
 男は、何がないやらさっぱりわかりませんでしたが、一旦店を出て横の玄関から中に入りました。居間に招き入れられますと、奥さんがにこにこしながらお茶をいれて下さっています。男は、慌てて持ってきた洋菓子を奥さんに手渡しますと、「何もそんなにされなくとも・・・」と、優しくおっしゃって下さいました。
 お茶をいただいて、ホッとひと息ついておりますと、御主人が、奥からゴソゴソと資料を持ってきました。 「ザリガニ、好きなんですか?」
「ハイ、でも、わからないことばっかりで、正直、困ってしまってます。飼い方だけならいいんですけど、種類すらわからないのが多いんですよ」
「ほぉ。どれくらい飼ってるんです?」
「匹数は数えたことないんですけど、ヤビーと、マロンと・・・」
「へぇ、そりゃ立派なもんだ。確かに、わからないことばっかりですよねぇ。私なんかも、好きだからカッカしてやっているけど、うまく行かないことが多すぎてねぇ・・・」
 男と御主人はザリ談義に花を咲かせました。男は、次々と話題が出てくる御主人を前に、初対面であることも忘れ、どんどんと日ごろの思いをぶつけて行きました。御主人は、時にうなずき、時に笑いながらも、男の疑問に答え、自分の意見を出して行きました。でも、その一つ一つには、決して傲りも出任せもないのです。わからないものはわからない、そして、この考えはあくまでも仮説に過ぎない・・・など、普通のショップの人間なら使いたがらない言葉を、平気な顔をして使って行くのです。その姿は、お客にモノを売る商売人のそれではなく、ザリが好きで好きで仕方がない、一紳士そのものでありました。男はいつしか、「これだけでも、ここに来た価値はあったなぁ・・・」と思い始めていたのです。
 何十分かたったでしょうか? 脇でにこにこしながらテナガザルの世話をしていた奥さんが、突然こう切り出しました。
「ねぇ、ここで話をしててもしょうがないんじゃないの?」
「ああ、そうだな。じゃ、ちょっと2階に行ってみましょう」
「あ、ハイ・・・」
 男は、予想外の展開に、ちょっとビックリしました。ここで話をしたら、もう一度お店の水槽を見せていただいて、あとは帰るだけだとばかり思っていたからです。ワケのわからぬまま、男は、御主人の後に続いて階段を上りました。脇には、熱帯魚や鳥類・小動物の雑誌や資料がギッシリと積まれています。御主人は、よっぽどこうした生き物が好きなのでしょう。
「散らかってるけど・・・」
御主人は、にこにこしながらそういうと、男を奥の部屋へ招き入れました。男は、何やらわからず、その部屋に入りましたが、その途端、全身の血液が波打って流れ始めたのです。
 部屋には、大小さまざまの水槽がギッシリとセットされ、奥のベランダにも、いくつかの水槽がセッティングされています。そして、1つ1つの水槽には、マロン・ヤビー・レッドクロウ・クーナック・フロリダ・アメザリ・ウチダ・・・と、ありとあらゆるザリが、元気に動き回っているではありませんか! それこそ、数え切れないほどのザリ・ザリ・ザリ・・・。男は「うわぁ!」と言ったきり、その後が続きませんでした。
「まぁ、座ってよ」
御主人は、立ちつくす男に笑ってそういうと、男に座布団を勧め、自分も部屋の真ん中に座布団を敷いて座りました。
「さっきの話だけど、これがそのやり方でやってみたザリでねぇ・・・」
「・・・」
「それに、こっちがさっき言ったやり方でペア組んだマロン。一応、卵抱えているんだけど・・・」
「・・・」
 御主人は、次から次から個体を取り出したり、指さして見せながら、さっきまでのザリ談義で出た内容の説明を続けて行きます。でも、当の男は、返事をするのがやっとでした。
 今まで、それなりのザリ生活を営んできて、こんなすごい水槽に出会ったことがあったでしょうか? こんなすごい人物に出会ったことがあったでしょうか? 一本一本の水槽に入ったザリたちの動きは、男の飼っている個体と違って、実に生き生きとしているのです。そして、男が、必死の思いで飼育し、それでも半年と持たずに殺しているマロンを、この人は繁殖までさせているのです。それなのに、この人は、「まだまだわからないことばかりでねぇ・・・」と平然として言い切れる・・・。そんな現実を前に、男は、ただただうなずくばかりで、どうにもなす術を失っていたのでした。「感動は人間を黙らせる」と申しますが、その言葉通り、男がやっと自分から話せるようになったのは、ひと通り、水槽の紹介をしてくれた後だったのです。
 御主人の観察眼は、すさまじいものがありました。とても優しい目をされた方でしたが、男の質問に対して自分の考えを語る時、そして、ザリをながめる時だけは、キリッと光る鋭さがありました。どうしてこういう点に気がつくのか・・・という部分を次々と提示しては、それに対して現段階でわかる限りの考えを語って下さいました。男は、ただただ感心し、伺った内容を頭に叩き込んで行く以外、方法がなかったのです。
 「それじゃあ、そろそろ・・・」
 男が今にも根を張ってしまいそうな重い腰を上げたころ、空はすっかり夕暮れの茜色に染まっていました。
「これから駅までじゃ大変だろう。溝の口の駅でよかったら、送っていくよ」
御主人は、盛んに恐縮がる男の背中をポンポンと叩くと、車に乗せました。そして、若い店員さんに声を掛け、底砂に混ぜたところ調子が上がったという、無添加のゼオライトを一袋持ってきて、男に手渡しました。
「ま、お互いわからないもん同士だからさ、一生懸命、勉強しようよ!」
男は、頭を下げてお礼を申し上げる以外、何をしていいのかわからない状態でありました。
 車が駅に着き、御主人にお礼を申し上げて駅に降り立つころには、陽もどっぷりと暮れ、早くも通りの赤提灯が揺らいでいます。男は、あまりにも嬉しくて、そして、あまりにも有意義で、思わず一人、祝杯をあげたくなりました。でも、ここから男の家までは、まだ2時間以上の道のりが残っているのです。しかも、ほとんど眠れなかった前夜の疲れが、ふとした安心をきっかけに、ドーッと男を襲い始めていました。
「とうとう、師匠を見つけたぞ。俺のついて行く人間を見つけたぞ・・・」
男は、電車のシートにどっかりと腰を下ろすと、これ以上にない充実感を胸に、いつしか深い眠りへと引き込まれて行きました。




邁進の巻(第26章〜)に続く