〜青雲の巻〜
最終更新日 平成12年11月6日




第13章 文殊の知恵


 男のザリ飼育は、ハタから見てもおかしくなるくらい、悲壮感に満ちたものでした。奥様はとっくにサジを投げ、Mくんは、「やってて楽しくないでしょ! いっつも、しかめっ面して水槽覗き込んでるもんなぁ・・・」と苦笑いしました。しかし、男にとって、これは「引き返すことの許されないもの」であり、もはや「趣味」というよりも「執念」に近いものがありました。
 ただ、すべての物事がそんな「執念」程度の意欲でクリアできるほど、世の中そうそう甘いものではありません。最初こそ順調であったそれぞれの個体も、時間が過ぎるに連れ、1匹、また1匹と調子を崩して行きました。そして、やがて1匹が落ち、2匹目が落ち・・・。ふと気がつくと、下駄箱の上の水槽は、再び水だけが回り続ける状態へと戻っていました。それでも男は、相も変わらずデータを取り続け、文献を探して回りましたが、もはや、個人の力ではどうしようもないような「袋小路」に入り込んでいたことは、誰よりも男自身がよくわかっていました。
 そんなある日のこと、男の惨状を見かねたのでしょうか? Mくんが、小さな手刷りの冊子を数冊抱え、ふらりとやってきました。見ると、どうやらMくんが取り組んでいるディスカス飼育に関する冊子のようです。Mくんは、いつも通りの笑顔で、こう言いました。
「これ見て下さいよ。これはね、僕が入っているディスカスサークルの本なんですけど、こうしてみんなでやってると、フツーの雑誌じゃ載らないようなことも、ガンガン書かれてくるんです。情報も集まるし、ザリもサークル作ったらどうです? きっと今ごろ、他のみんなも困ってるんですよ」
 男は、気乗りしなさそうに、その冊子を手にしました。手刷りで10数ページ、ホチキス止めのいびつな冊子ではありましたが、中身はなるほど、ディスカスのためだけのディープな内容で満ち満ちています。
「でもよぉ、俺のはディスカスじゃなくてザリガニだぜ! 俺なんか、これだけショップ巡りしてるのに、俺みたいにザリばっか飼ってる人間、見たことないよ。サークルなんて作ったって、結局、無駄骨じゃねぇの?」
 男は、やっぱり気乗りしませんでした。元来の人見知り気質も、こんな時には「余計な力」になって、出だしの意欲をくじいて行きます。情報は集めたいくせに、どうも上手に人と仲良くなれない・・・。男にとって、これは致命的なマイナス気質でありました。
 しかしMくんは、そんな男の内面など、すっかり見通していたようで、間髪入れずにこう続けました。 「じゃあ、何か手はあるんですか? ザリなら、メジャーじゃない分、サークル同士のいがみ合いもないから、いいじゃないですか! じゃあ、僕も一緒にやりますよ。6Mが一本空いてるし・・・。どうせ先が見えてるんだから、討って出た方がいいですよ。それとも、ザリ辞めて、またアロワナでも飼います? いいですよ、最近の過背金龍・・・」
 最後の一言が、男の心にグサリと突き刺さりました。まだこの時、男の心の中には、淡い「過背金龍の夢」がくすぶり続けていました。でも、今さら未完成のままでザリを辞めることなど、男自身のプライドが許そうはずがなかったのです。かといって、今のままで飼育を続けても、これ以上の進歩などできそうにありませんでした。そう、男にとって、この提案は、受ける以外に方法のないものだったのです。
「よし、やるか! 三人寄れば文殊の知恵って言うもんな!」
 男は意を決しました。例によって、男の人見知り気質が、頭の片隅でうごめいていましたが、それを無理やり封じ込め、とにかく討って出ることにしたのです。2人で考えた結果、どうせだから名前だけでも全国規模で・・・ということで、大仰にも「ジャパン・クレイフィッシュ・クラブ」と命名! ここにJCCの第一歩がスタートしたのでした。意欲よりも不安が勝ったこの船出・・・。もちろんこの時、このサークルが全国から仲間が集うザリ・キーパーの団体に育って行くことなど、当の男自身、夢にも思っていませんでした。


第14章 会員現る!


 さて、血気盛んにサークル結成宣言をブチ上げてはみたものの、何をどう進めたらよいのやら、男はサッパリわかりません。それもそのはず・・・。「サークル」とはいっても、会員はたった2名なのです。しかもそのうち1人は、本来ならザリガニとは縁のない、完全な「助っ人」。Mくんの前で高らかに宣言をしたその夜、男は布団の上で、真っ暗な天井を眺めながら、どちらかといえば後悔の念に近い不安感に苛まれておりました。幼稚園児が脇の小川で捕まえたザリガニを飼ってみるのならともかく、得体の知れない奇妙な色の、しかも正体から飼育法まで全くわからないザリガニを、どこまでも追い求めて行くような人なんて、そうそういるはずもなかったのです。所詮は「自己満足」の「サークルごっこ」で終わってしまうのではないか・・・。それだったら、ハナからやらない方がいいに決まっています。
 しかし、いくら親友だからといって、いとも簡単に前言を撤回できる勇気もなく、そして、持ち前の妙なプライドが、それを許しませんでした。そう、やっぱりやるしかない・・・。
 男は次の日曜日、さっそく顔見知りのショップを次々と回り、「同好の士」がいないかを聞き歩きました。しかし、収穫はゼロ。「飼ってる人は何人か知ってますけど、みんな別の魚がメインです」「サークル活動までして、ザリガニやるようなお客さん、ウチにはいないですえぇ・・・」というような回答の数々は、男の心をさらに重いものへと突き落として行きました。
 一方のMくんはといえば、こちらもディスカスつながりのショップや仲間たちに当たってみたものの、反応はナシ。よくよく考えてみれば、ただでさえパイの小さな観賞魚界で、これまたドが付くくらいマイナーなザリガニのキーパーなど、そんな簡単な作業で見つかるワケがなかったのです。新たな発展のための高らかな結成宣言から1カ月後・・・、メンバーはやっぱり2名のままでありました。そして、男の知識も、飼育しているザリの状態も、相変わらずでありました。こうなると哀れなもので、あれほどだった決意も、まさに倒壊するビルの如く、音を立てて揺れ始めておりました。
 そんなある日曜日のこと。例によってひょっこりと現れたMくんは、新しく自分の水槽に導入した  ブルーマロンの自慢話をひとしきりした後、おもむろに雑誌を取り出して、こう言いました。
「これ、ダイヤルQ2を使った熱帯魚の伝言ダイヤルなんですけど、今、キャンペーンで吹き込み無料なんですよ。ウチのディスカス・サークルでも吹き込んだら、5人も連絡来ましたぜ。おいしいかもしれないから、入れてみましょうよ!」
男はビックリしました。当時、脚光を浴びていたダイヤルQ2でしたが、やはり、そのイメージとなると「アダルト系」・・・。単純な脳味噌の男にとっては「Q2=アダルト」以外の何物でもなかったのです。
「どうすんだよぉ〜。怪しいオタクみたいなのが入ってきたら・・・」
「ハハハハ、ザリガニなんてやってんだから、僕たちだって、もう充分怪しいオタクですよ!」
「そりゃそうだけどなぁ・・・」
 男は、やっぱり乗り気ではありませんでした。しかし、Mくんの所属するディスカスのサークルには、これで5人も新人が増えたのです。ここで迷っていても、それを吹っ切れる代案などあろうはずがなく、Q2だから・・・などといった綺麗ごとを言っていられる状態でもありませんでした。
 男は、その夜、奥さんに内緒で吹き込みをしました。キャンペーン期間で無料だとはいえ「Q2を利用している」なんて、恥ずかしくて言えませんし、そんな姿すら見られたくありませんでした。妙なプライドを持つ人間は、本当に惨めなものです。
 ところが、それから3日後、驚いたことに2件の伝言が入っていたのです。福岡の学生さんと東京のサラリーマン・・・。いずれも「ザリガニが好きですが飼い方がわからず困っています。ぜひ入れて下さい」という内容・・・。男は飛び上がって喜び、さっそく連絡を取りました。それから約1週間後、男の家のポストには、待ちに待った「入会申し込み」のお手紙が入っておりました。


第15章 カオスの第1号


 会員4名・・・。マイナージャンルの無名な団体からすれば、順風満帆過ぎるスタートです。男は、ウキウキしながら、さっそく機関誌作りに着手しました。幸いなことに、福岡の学生さんは、非常に熱心な方で、情報も次々と入ってきます。男も、精力的にショップを回り、情報を集めて回りました。
 ところが、機関誌を飾るような内容のネタが、どこからも出てこないのです。今から考えれば、売れ線でもないザリガニについて知識を深める暇などないショップの店員さんに、オタクの極みであるような質問をする方がおかしいくらいですし、そんな珍妙な質問をぶつけられる店員さんの身になれば、それこそ迷惑千万な話なのですが、ペット業界でザリと出会った人間にとって、こうしたところに頼ってしまうのは、ある種の「必然」でもありました。
 ジャーナリズムの世界では「情報収集力」と「情報分析・整理能力」の両輪が上手くかみ合って、初めて一つの「形」ができる・・・と言われます。その点で、当時、男はあまりにも後者を軽く見すぎておりました。奥さんの冷たい視線をひしひしと感じながらも、仕事が休みになるたびにショップを回り、情報を収集する・・・。あるところでは「さぁ、わかりませんねぇ」とけんもほろろに吐き捨てられ、そして、あるところでは何時間も店員さんの説に耳を傾け、気がつくと、その数は50を軽く越えておりました。
 ところが、そうして集まった情報を整理する段になって、先ほどの問題が、まるで予定されていたかのように、男の脳味噌へと重く、重くのしかかってきました。そう、集めた情報のほとんどが、それぞれに全く別の「真理」を語り、別の技法を推奨し、別の技法を批判していたのです。しかも、それぞれが違うことを主張する理由や、それぞれの正当性を明確化できる手段が何もない・・・。男はここで、再び頭を抱えてしまいました。これじゃあ、機関誌なんて作れないじゃんかぁ!
 一つの物事について意見が割れること自体は、どの世界にもよくあることです。すべてがバラバラの方向を指し示すことだって、少なからずあり得るはずでしょう。しかし、そうした場合、必ず「割れる状況」「バラバラになる状況」を裏付ける、何らかの「理由」があるものです。この「理由」を細かく分析し、検証して行くことで、バラバラになっている一つ一つの意見を拾い集め、調整し、統合して行く・・・。社会人なら、誰もが経験することに違いありません。男も、それくらいの軽いノリで、せっせと情報を集めていたのでした。ところが、いざ分析しようと思った段階で、その「理由」が全く見当たらないのです。どういう理由で、どういう条件から、これらの違いが生まれたのか・・・? 男は、集まった情報を前に、何度も何度も考えました。しかし、何をどう考えても、男の前にあるのは、意味もなく埋め尽くされた「違い」だけ・・・。何がどうしてこのように違い、それが何を示すのかもわかりません。ただ雑然と、そしてうずたかく積み上げられた「違い」の山は、まさに「カオス(混沌)」を象徴するものでありました。
 カオス・・・。どことなく怪しげな魅力すら感じさせるこの言葉。男は、さんざん悩んだあげく、一つの結論を出しました。「そう・・・、これがザリ飼育の現状なんだ。ここから出発しなければ、先には進まないんだ。まず、カオスであることをハッキリと自覚しなけりゃいけないんだ」と・・・。
 それから数週間後・・・。自宅にあった男の机の上には、いつもの国語教材と一緒に、機関誌「ZALIX PRESS」の創刊号が乗っていました。機関誌とはいっても、B4版1枚、表裏印刷、しかも手刷りの貧相なものでした。そして、その誌面を飾るザリガニ記事は、それぞれが別々の主張をし、推奨し、批判し合うという、今から思えば恐ろしいほどにメチャクチャな内容となっておりました。仕方ないとはいえ、ザリ界の「現状」が、改めて男の前にズバッと突きつけられたわけですから、男にすれば、素直に喜べる気持ちになど、なれるわけがないのです。
「晴れの機関誌第1号が、これじゃなぁ・・・。混沌からのスタート・・・か」
 男は、刷り上がった機関誌を前に、タメ息をつきました。


第16章 引っ越し大作戦


 このころ、男のアパートには、すでに大小10本以上の水槽が稼働しておりました。新婚であれば「スウィート・ホーム」となるはずの家も、常にエアーポンプの音が響きわたっていたのです。
 男の奥さんは、決して「主人の三歩後ろを黙って歩く」的な人ではありませんでしたが、男のこうしたオタク的性格は、しっかりと踏まえておりました。いや、もはやあきらめていたのかも知れません。「ギャンブルだけはやらないでよ・・・」と言う他は、特に何を言うわけでもありませんでした。鳥類を除けば、生き物に対して抵抗感がない女性であったことも、男にとってはありがたいことだったといえましょう。
 しかし、それにしてもこの水槽本数は、限界に近いものがありました。玄関からキッチン、そして洗濯機の横にまで水槽に進出されては、普通の生活にも支障をきたすというものです。それが、色とりどりの綺麗な熱帯魚であるならともかく、明るい時間はほとんど塩ビ管の中で過ごすザリガニばかりですから、いくら生き物に対して寛容だといっても、自ずと限界は見えてきましょう。
 一方、男の方から見ても、もはやこの本数では、充分な飼育を続けて行ける状態ではなくなっていました。このころ、少しずつ「長期飼育のコツ」をつかみ始めていた男にとって、次のステップである「繁殖」をクリアさせるためには、こんな程度の本数で充分なデータなど取れようはずもありません。最低でも、あと4〜5本は必要・・・。
 となれば、どちらにとっても「限界」です。奥さんは、飼育こそ否定しませんでしたが、盛んに「種を絞れ」とプレッシャーを掛け始め、男も真剣にそれを考え、そして、いつも「どの種とて削るわけには行かない」という結論に達しました。じゃあ、どうしたら・・・。
 男の家から車で15分ほどのところにある男の実家には、車なしでは生活できない田舎ならでは・・・と言うべきでしょうか、2台分がしっかり入る、広いスペースの車庫がありました。そして幸いなことに、うち1台は男が自分の家族用に使っていますから、実質ここに常駐する車は1台のみ・・・。ぽっかり空いたスペースは、雨露をしっかりしのぐ上に、水濡れなど一切気にならないコンクリート打ち。しかもここには、田舎ならではの井戸が、現役として生きておりました。どんなに頻繁な換水も、水道料金を気にせずにできる・・・。こうなれば、決断を迷うものなど何もありません。
 次の日曜日、男の実家には、真新しい120センチ水槽と30センチ水槽が3本、セットされました。「水を作っておかないと、大型魚が死んじゃうから・・・」と男は説明しましたが、それが明らかに水槽本数拡大を意図したものであることは、男の奥さんも、男の両親も、すっかりお見通しでありました。
 「何が始まったかと思ったら、またそんなことやってんのね!」 物心ついて以来、次々と繰り出される男の凝りぶりをハラハラしながら見続けてきた男の母親は、そう言ってシブい顔をしました。でも、これも御両親の熱心な教育の賜物・・・。こんな研究熱心な子どもが育ったわけですから、おめでたいことではありませんか! 男は、新たな「城」の完成に、ニコニコしておりました。
 そして、その次の日曜日。男のアパートには、朝からトラックが横付けされています。まずは、最後の大型魚となったブラックアロワナとナイルパーチが厳重にパッキングされ、運び出されて行き、主役のザリたちは、次々と湿らせた新聞紙にくるまれて行きました。
「それって、ちょっと可哀想じゃない?」男の奥さんが、心配そうに覗き込んでいます。
「大丈夫、15分の辛抱だよ! ザリは、エラが濡れてさえいれば、呼吸することはできるんだ・・・」男は、自信に満ちた声で答えました。唯一、マロンだけが心配でしたが、これだけの移動時間であれば、何とかクリアできるだけの自信はありました。そして、ヤビーやアメザリなどには、もはや心配すらしませんでした。
 トラックが、男の個体と水槽、そして笑顔あふれる男を載せて、アパートを離れて行きます。奥さんは、心のどこかで「ホッ」としながら、男の車でトラックの後ろに続きました。
 実家では、男の母親が、奥さんとは正反対の気持ちで、男を出迎えました。男は、相変わらずニコニコしながら大型魚を収容し、持ってきた水槽を次々に立ち上げながら、ザリを放り込んで行きます。こんな時、男の作業は迅速でした。毎朝、いつまでも布団の中でウジウジし、奥さんに一喝されてしぶしぶ動き始める男の姿など、どこを探しても見当たりません。太陽がすっかり高くなり、テレビからのど自慢の鐘が聞こえ始めるころ、車庫はすっかり「水槽群」へと変身しておりました。


第17章 ユーメイ人の迷い


 車での往復には骨が折れましたが、男にとって、新しい飼育スペースは天国でありました。あくまでさり気なく、しかし極めて計画的に水槽本数は増え続け、秋が終わるころには、実に30本近い水槽がガンガンに水を回しておりました。種水として井戸水が使えるようになり、水道料金を一切気にしなくてもよい状況になったことも、それに拍車を掛ける大きな要因になったといえましょう。個体数はもちろんのこと、今まで抑え気味にあった飼育種も、それこそ雪崩が起きるごとく増えて行ったのです。
 そんなある日のこと、いつも通りに男が帰宅すると、奥さんがけげんそうな顔でこう言いました。
「ねぇ、今日、アクアライフの編集部から、電話がかかってきたわよ。なんか頼んだの?」
男は、何の心当たりもありません。アクアライフは、結婚する前から読み続けていた、男にとって数少ない定期購読誌の1つで、何回か、ザリガニの記事のことで質問の電話をしたことはありましたが、向こうから御連絡をいただく理由など、全くなかったのです。「さぁ、俺だってわかんないよ・・・」
 翌日、男は編集部に電話をしてみました。すると、昨日お電話をくれたという編集部の方が、明るい声でこう言いました。
「まだ、ザリガニ飼ってらっしゃいます?」
「はあ、何とか・・・」
「どれくらい飼われているんですか?」
「いやぁ、稚ザリとかもいるんで、数えたことないですけど・・・」
「それはいい! ぜひウチのルッキンで、取り上げさせていただきたいんですよ!」
「えっ・・・?」
 男は面食らいました。確かに、アクアライフは毎号必ず読んでいましたが、実際にザリガニの写真が登場することなんて、年に数回あるかないかですし、系統だった情報が誌面を飾ることなど、まずあり得ないことでした。それに、男にとって「観賞魚雑誌」というものは、メジャーな観賞魚について、きちんとした知識や経験を持った人間が、様々な情報を提供するもの・・・。男のようなマイナー種を飼い、しかも知識も経験もない人間が登場することなど、あるはずもなく、あってはならないものだと思っていました。
「でも、そんな大したものは飼っていないし、珍しいものもないんですよ」
「ハハハハ、いえいえ、よくお話はうかがってます! 大丈夫ですよ、ぜひお願いします」
「はあ・・・」
 これは後から聞いたのですが、確かにそのころ、男は、県内のショップで、ちょっとした有名人になっていたそうです。ただ、有名人といっても、キャーキャー騒がれるような芸能人ではなく、何の前触れもなくノソッと現れては、ザリの情報を聞きまくり、新着の個体をあさる人相の悪い中年男性・・・。このころ、「中年」と呼ばれるには多少若い年齢でしたが、薄くなりはじめた髪にオヤジ臭い風貌、そして少年時代より弛み続けていた下っ腹は、男の姿を「中年」以外に表現することはありませんでした。
 きっと「ザリガニ飼育に凝りまくっている怪しい中年男性が千葉県にいるらしい」なんていう情報にでもなったのでしょう。それにしても、色とりどりの熱帯魚が飾る誌面の片隅に、得体の知れないザリたちと、人相の悪い中年オヤジが出るなんて・・・。
 元来、自己顕示欲が並外れて旺盛だった男は、雑誌に出ることができたこと自体、とても嬉しいことだったのです。しかし、自分の知識や経験が稚拙極まりないことくらい、充分以上にわかっていましたし、そんな醜態をさらすことで、自らが嘲笑されることを、妙なプライドが許しませんでした。「出たい、でも、恥をさらすくらいなら、出ない方がマシ・・・」
 男はその夜、今まで書き貯めたノートやデータを全部机に並べてみました。購入データ・飼育データ、種別の資料・・・。量は、そこそこありました。しかし、雑誌に登場するような人間として、読者に喜んでいただけるような質を伴う情報は、それこそどのページをめくっても出てきません。
「これじゃ、色物にもなりゃしねぇ・・・」
男は、ため息をつきました。


第18章 ザリガニには、夢がある


 翌々週の木曜日、男は早朝から実家に出掛け、いそいそと車庫の掃除をしておりました。今日は取材の日・・・。うす汚れたみっともない水槽群など、御覧いただくわけには行きません。
 男は、あの電話の後、相当迷いました。中身など全然ないくせに、蔑まれることだけは許されないという、男の哀れな性格が、当の男自身を苦しめたのです。しかし、ああだこうだと迷い続けて行く中で、ふと、ある考えが脳裏をよぎりました。
「そうだ、このステイタスを利用しなきゃ!」
 このころ、家族の中で男の肩身は、増え続ける水槽の本数に比例して、狭くなる一方でした。実家に行けば「水槽を減らせ」と小言を聞かされ、自宅に戻れは、うずたかく積み上げられた資料をどうにかしろと叱られる・・・。我ながら、少々困った状態になっていたのです。もちろん、親の立場からすれば、バカ息子の凝り性がエスカレートしてきて、せっかく準備した車庫も、いつの間にか水槽だらけになってしまったわけですし、奥さんの立場からすれば、自分が片付ける資料よりも、バカ亭主が積み上げられる資料の方が多い毎日・・・。おまけに、どっちに行っても、愛想笑いすら浮かべず、それこそニガ虫つぶしたような表情で、ザリガニのことばかり考えているわけですから、小言やグチの一つや二つくらい、言いたくなるというものでしょう。男が、いくら「真剣に取り組んでいる」と言っても、興味ない人間からすれば、何の生産性も伴わない、無意味な「遊び」以外の何物でありません。できることなら、そんな馬鹿げたものなんて、やめてもらった方がいいわけです。
 そんな時、雑誌というメディア媒体は、効果バツグンなはずでした。親から見ればバカ息子、そして奥さんから見ればバカ亭主の、どうしようもない道楽・・・としか思われていないザリガニ飼育を見直してもらうためには、こんな「目に見える成果」こそが大きいのです。そうだ、これなら効果アリだ・・・! 男は、その翌日、しっかりとアポを取り付けていたのでした。
 朝10時過ぎ、編集部の方がお見えになり、写真撮影が始まりました。1匹1匹、フラッシュを調整しながら、何カットも何カットも、丹念に撮り進めて行きます。男は、時折、水温計を使って塩ビ管に逃げ込んた個体を追い立てる手伝いをしながら、ずっとその成り行きを見守っていました。
「たかだかモノクロ2ページなのに、どうしてこんなにも気をつかうんだろう・・・」
 男にとって、自分の水槽の前で繰り広げられる、静かな、でも鬼気迫るような時間の流れは、とても意外であり、そして感動的なものでした。こんなにも真剣な時を刻んで、1ページ、1ページと編み上げられて行く・・・。そして、そんな舞台に、自分のような人間を使ってもらえる・・・。撮影を進める編集者の後ろ姿を見つめながら、男は異常な感動と、興奮に包まれていました。
 かれこれ2時間・・・。撮影は何とか終了し、いよいよ、家の中での聞き取り取材です。つい昨日まで、さんざん小言を浴びせていた家族が、奥の部屋から遠巻きに様子を見守っています。こうなれば、余計、イイトコ見せておかなければなりません。男は、編集者の質問に対し、知っている限りの知識、そして集められた限りの情報を交え、自分でも恐ろしいくらいのテンションで答えて行きました。それでも、ともすると饒舌過ぎたかも知れない返答に、編集者は嫌な顔ひとつせず聞き取り、メモして行きました。
 それから3週間が経ち、発売前日、男の家に、ピカピカの最新号が送られてきました。いつもは書店で購入する本が、こうして送られてくるというのも、男にとっては新鮮な感動でした。ドキドキ、ワクワク、否が応でも、胸の鼓動が高鳴ります。初めて、他人様に自分の飼育成果が評価される・・・。こう考えると、いても立ってもいられません。ちょうど小学生が、初めて自分の通知票を手にした時のような、そんな気分でありました。
 自信は・・・もちろんありませんでした。あれだけ熱弁を振るった聞き取り取材も、冷静に考えれば、説得力を欠くデータに、薄っぺらい経験の上に成り立ったもの・・・。そんな程度のレベルで、錚々たる執筆陣の記事に互して行こうなど、無謀もいいところです。
「ザリなんて、所詮は色物なんだから、どうせ大した扱いじゃないさ! 色物なら色物らしく、受け止めりゃあいいんだ・・・」 男は、一生懸命自分に言い聞かせました。
 そしていよいよ自分のページ・・・。男の視線が、釘付けになります。
 そこには、思っていたよりも遥かに鮮明に、そして遥かに整然と、ザリたちが写っておりました。男の人相だけは相変わらずでしたが、不思議なことに、ページのどこからも「色物」の香りがしてこないのです。まるでザリガニが、立派な飼育ジャンルであるかのように、そして、大きな魅力を持ったものであるかのように、堂々と、臆することなく描かれておりました。
 男は、ひと通り眺めた後、見出しのタイトルのところで、目を止めました。
「今、ザリガニには、夢がある」
そこには、こんなフレーズが飾られていました。男は、思わず涙が出そうになりました。確かに、日本を代表する観賞魚雑誌として、ああいう高レベルの雑誌を毎月出し続けている編集者のことです。男がどう熱弁を振るおうとも、知識の貧弱さや経験の乏しさなどといった本質は、間髪入れずに感じ取ったに違いありません。でも、そんな一介のザリ好きな男が、滔々とその魅力を語る姿を見て、編集の方は、ザリへの熱意と、将来への希望を感じ取ってくれたに違いない・・・。そのタイトルは、男自身ですら気付かなかった男の姿を、余すことなく語ってくれていたのです。
「そうかぁ、夢かぁ・・・」
 そう。知識もない、経験もない男にとって「夢を追い続けること」こそが、最大の武器であり、燃料であったのです。
「よぉし、やるぞぉ・・・! 極めてやろうじゃん、広い世の中に1人くらい、ザリだけにしか興味を持たない変テコな生き物好きがいたっていいんだ。しかも、それを色物として見ない人たちだっていてくれるんだ! こうなったら、いつか特集、やってもらおうじゃん!」
   ザリを飼い始めて初めて、男は上を見て、拳を固く握りしめたのでした。


第19章 一通の手紙


 雑誌への登場は、実に効果テキメンでした。あれほど冷たい視線をぶつけていた家族も、少しはバカ息子・バカ亭主の取り組みを評価したらしく、それまで「批判の対象」でしかなかった水槽を覗いてくれるようになったのです。もちろん、それもしばらく経てば元に戻ってしまうのですが、たとえ一時しのぎであっても、男にとっては本当にありがたいことです。
 ただ、気合いの割に、研究の方はほとんど進展していませんでした。機関誌も相変わらずの内容で、愛用のバインダーには、これまた毒にも薬にもならないようなレベルの書き込みばかりが続いていたのです。そのころになると、さすがに原因不明のまま突然死する個体こそ少なくなりましたが、それでも、劇的な飼育技術の向上などあるはずもなく、規模でごまかされていたとしか思えない部分もありました。それでも相変わらず、男はショップ巡りを続けていましたが、朝から回ったところで、真新しいニュースは入るはずもありません。こうなると、せっかくの気合いも空回りをする・・・というもので、朝から家を出てみても、結局はザリを始める前から馴染みだったショップに居座ってしまい、常連さんたちといらぬ話に花を咲かせる時間が長くなって行ったのです。決して、ザリの入荷量が多いショップではありませんでしたし、店員さんも常連さんも、ザリに賭けている人ではありません。でも、同じアクアリストとして、男の想いをわかってくれる人たちが集っていたのです。「追っている相手が違うだけで、想いはみんな同じなんだ・・・」 そんなある種の連帯感だけが、男にとってはありがたい「支え」でありました。
 そんなある日のこと、編集部から一通の手紙が送られてきました。不思議に思いながら封を切ってみますと、ぶ厚い封筒の中には「筆者あてのお手紙ですので、回送いたします・・・」というお手紙とともに、四通の封書や葉書が入っていました。入会希望が二通、質問が一通。仲間を見つけることが非常に難しいマイナージャンルでは、こんな有り難いことはございません。男は、ワクワクしながら最後の一通を開きました。その途端、男は、とてつもなく大きな喜びに身体を震わせました。
 三重県の消印が押されたその封筒の中には、恐ろしいほどの「気合い」が満ち満ちていたのです。Nと名乗るその人は、男とほぼ同時期に、ほぼ同じような形でザリに出会い、そして、男と同じような悔しさを味わいながら、ザリとがっぷり四つに組み合い、そして、男と同じような形で会を作り、情報を集め合っていたのですから・・・。
  「この世の中に、俺みたいなザリ狂が、もう一人いたなんて・・・」
このことは、男にとって、心の底から待ち望んでいたことでありました。そして、叶わぬ夢だと、あきらめていたことでもありました。男本人がどう真剣に取り組もうとも、ザリガニなんて、誰も相手にしないマイナー・ジャンル・・・。ですから、そんなものを目の色変えて追い回す男など、どこへ行っても「異端児」で「好き者」であり、そして「邪道」で「色物好き」としか映らなかったのです。当の男自身、そんな空気など、とっくの昔に察知していましたし、普通のショップであれば「お客様」という立場ででもなければ、全く相手にされないだろうことも、とうに見切っていたのです。真剣に語り、真剣に議論を戦わせる相手を見つけようなど、最近は考えることすらできなくなっておりました。
 でも、今、机の上には、一通の手紙があるのです。
「仲間が・・・いる。しかも、気合いの入った凄いパワーの仲間がいる・・・」
 男は、仕事の疲れも忘れて机に向かい、返事を書きました。そして、東の空がうっすら明るくなったころになっても、机の電灯は消えませんでした。




怒涛の巻(第20章〜)に続く