〜黎明の巻〜
最終更新日 平成12年6月2日





第1章 「ワタ」大作戦


 大都市東京から、電車でかれこれ1時間半ほど揺られた田舎の町に、ある男がおりました。大自然の懐で育ったせいでありましょうか、はたまたそうした家族の中で育ったからでありましょうか、この男は、生まれついての「生き物好き」で、物心ついた時から、犬だ、鳥だと飼っておりました。
 その男が小学生のころ、学校で「マッカチン」のブームが起きました。「マッカチン」という名は、今でも多くの地域で「アメリカザリガニ」を指す言葉なのですが、この男の小学校では、ちょっと違いました。同じザリガニの中でも、体長が10センチ以上はありそうな、大きい真っ赤なザリガニに対してだけ、子どもたちは敬意を込めて「マッカチン」と呼びました。ですから、小さいザリガニは、何匹いても「ザリ」であり、当然、ザリガニが大きければ大きいほど、赤ければ赤いほど、捕まえた子どもはヒーローとなりました。
 こうなると、競い合うのは男の子の常・・・。田舎なものですから、田んぼや小川は、学校への行き帰り、片道30分ほどの道のりの途中に、いくらでもありました。そんな水辺のあちこちに、それぞれの子らが「秘密の場所」を持ち、今から考えれば「子どもだまし」以外の何物でもない「秘密の捕り方」を持っていました。
 この男の「秘密の場所」は、家から自転車で10分ほど走った、通称「勝田川」という用水路でした。ここを「秘密の場所」にする小学生は、他にいくらでもいましたが、この男は、他の小学生同様、ここを「自分だけの場所」だと堅く信じていました。
 ただ、この男には、他の小学生とちょっと違う「秘密の捕り方」がありました。スルメや子ザリのむき身、カエルのむき身を武器にする小学生が多い中、たった一人「ワタ」を武器にしていたのです。「ワタ」とは、魚の「ハラワタ」のことで、近所の魚屋のオジサンから「極秘」で分けてもらうわけです。オジサンからしても、所詮は「生ゴミ」。男の申し出を嫌がるはずがありません。男は、生臭い「ワタ」を新聞紙に包み、「秘密の場所」へと急ぎます。そして、これまた「秘密兵器」のビンドウに、血生臭いベトベトのワタを仕込み、ポイントに投入! 骨などのついた「3枚おろし」は、タコ糸に結び、別の場所に垂らします。
 男の戦果はバツグンでした。この戦法がやがて広く真似されるまでの期間、その男は、ヒーローの名を欲しいままにしていたのです。


第2章 研治くんのマッカチン


 男は、鼻高々でありました。この戦法が広く知れ渡り、時たま、男のマッカチンよりも大きなものが別の子の手で捕まえられることがあっても、「考案者」の威風は傷つきませんでした。
 ところが、そんなある朝のこと・・・。男のクラスメイトである研治くんが、こんなことを言い出しました。「俺んちには、勝田川くらいじゃ絶対にいないマッカチンがいるぜ!」・・・と。
 教室中は、もう大騒ぎです。男も、「まさか、そんなことはあるまい・・・」と思いながら、気になって仕方ありません。結局、放課後、みんなで研治くんの家へ見に行くことにしたのです。
 果たして、研治くんちの水槽には、男が今までの短い人生で一度たりとも見たことのない、ド肝を抜くようなデカいマッカチンが鎮座しておりました。友だちは、みんな大歓声! 研治くんは「新たなヒーロー」として、羨望の眼差しを一身に浴びています。なんでも、鯉釣りを趣味とするお父さんが、印旛沼で捕まえてきたそうです。
 今から考えれば、印旛沼という、ある程度の水深を持つ水域に棲息する個体が、常に水底の見える勝田川の個体よりも大型化するのは、ごく当たり前のことだといえましょう。しかし、そんなことなどわからない子どもたちにとって、この個体が与えた衝撃は、計り知れないものがありました。
 現実とは、時として恐ろしいほどの冷酷さを見せるものです。「自分で捕まえなきゃ、意味ないじゃん!」 そんな男の反論に、耳を貸すような子どもなど、一人もいませんでした。男は、それそれはくやしくて、また、自分の秘密の場所にも、そんなマッカチンくらい絶対いるはずだと信じ、それからも足繁く勝田川に通いました。しかし、いくら頑張っても、研治くんのマッカチンを凌駕する個体は出てきませんでした。毎週日曜日、研治くんちからは、研治くんのお父さんが引率する「ザリ釣りツアー」が賑々しく出発し、それに合わせたかのように、勝田川へ足を運ぶ子どもたちの数も、めっきり減ってしまいました。
 こういう時、男の強情な性格は損でした。男は終ぞ一度もツアーに参加することなく、代わりに、いるはずもない勝田川に足を運びました。そして、かわいい稚ザリたちと、深い深いため息だけを残し、家路につくのでありました。こうして、「ワタ作戦」で一世を風靡した、この男の名誉は、はかなくも散ってしまったのです。こんなわけで、この男の少年時代、ことザリガニについてだけは、苦い思い出が残りました。


第3章 白い衝撃


 それから月日は流れ、男は、とりあえず大学を出て就職し、世に言う「大人」となりました。しかし、中身は何の成長を見せたわけでもなく、相変わらず、生き物が大好きな生活を送っておりました。
 その時期、男は家禽類に魂を奪われていました。チャボを羽毛バリエーションごとに揃えてみたり、東天紅なる貴重な鶏を探し求めたり、挙げ句の果ては、自宅の禽舎を拡張して、クジャクを飼い始めてみたり・・・と、「凝り性」魂は際限を知らなかったのです。
 ところが、後に結婚することとなる男の彼女は、不幸にも鳥が大の苦手でした。「私の前世は、きっと虫だったのよ! だから、鳥は見るだけで怖いの」と豪語する彼女を前に、男は魂の継続を断念せざるを得なかったのです。男は、仕方なく、でも生き物とは縁を切れず・・・。ある日、デートの途中で立ち寄ったデパートの書籍売場で、男が手にしたのが「熱帯魚の飼い方」という一冊の本。そこには、色とりどりの魚に混じって、見たことのない南米の大型魚が写っていました。
 その後、あれほど隆盛を極めた禽舎が、水槽群に代わって行くまで、そう時間は掛かりませんでした。それなりに断腸の思いではありましたが、やはり田舎。こうした珍しい家禽類たちが、近所の方々の禽舎に移って行くのも、そう時間は掛かりませんでした。いつしか、自室の本棚には、「アクアライフ」が1冊、2冊と増えて行きました。「しょうがないわねぇ・・・」という彼女の嘆息をしり目に、男はみるみる「水を得た魚」になって行ったのです。
 そうしてしばらくたったころ、「アクアライフ」に、ある記事が載りました。「白いザリガニ、繁殖成功!」 こう銘打った記事には、威風堂々とした純白のアメリカザリガニが、その勇姿を飾っておりました。記事を読むと、それを成功させたショップは、車で2時間足らずのところにある、同じ県のショップではありませんか! 次の日曜日、車はそのショップへ続く道をひた走っておりました。
 そこには、数匹の大型個体と、何百匹もの稚ザリがおりました。なんという白さでしょう! なんというカッコよさでしょう! 隆々と盛り上がった大きなハサミには、これ以上にないくらい美しい白色が乗っています。その、相反しつつも調和した究極の美・・・。もとより車の運転が嫌いなその男は、2時間近くも車を走らせ、目もかすんでいましたが、そんなかすみなど一発で吹き飛ぶほど、鮮烈な出会いでした。
 かれこれ数十分、男は水槽の前にたたずんでおりました。できることなら、今すぐにでも持って帰りたい・・・。そんな気分でありました。しかし、無情にもそれを引き裂く白い紙。そこには、5という数字と、0が4つ、これまた整然と並んでいました。メインの飼育種ならばともかく、ただ「飼ってみたい」程度の生き物に、それだけの資金を投じる余裕など、あるわけがないのです。
 男は、結局何を買うもなく、その場を離れ、もと来た道に車を走らせました。何度もため息をつき、そして、諦めるに諦められない心境でありましたが、その時点で、まさか自分が、この後すべての大型魚と別れ、ザリの道へと進んで行くことになるとは、夢にも思っていませんでした。


第4章 国立公園のザリガニ


 その後、またしばらく、時は流れました。男は結婚して一家の主となり、実家から少し離れた場所に居を構えましたが、奥様の非難を笑顔でかわしながら移した水槽には、相変わらず元気な大型魚の姿があり、当時、この男の目標は「夢の過背金龍を飼うこと」でした。当時のアジアアロワナは、グリーンですら20万円近くする時代でしたから、ごく普通の小市民にとって、過背金龍など夢のまた夢でした。ただ、当時は「何が何でも血紅龍」という時代でしたので、そんな時代に過背金龍を支持していたこの男には、もしかすると先見の明があったのかも知れません。
 それはさておき・・・。当時の男は、奥様とともに、あるところに出掛けることが多く、その近くにあるショップに、ちょくちょく立ち寄りました。このショップは、アロワナマニアなら知らない人のない超有名店で、雑誌のカラーページを飾るような珍・怪魚も数多く扱っていました。男は、あるところに出掛けると、決まって帰り道、そのショップに立ち寄り、美しい過背金龍を見てはため息をつき、我が家のブラックアロワナの餌を買って帰る・・・ということを繰り返していました。
 そんなある日曜日、いつものようにこのショップに立ち寄った男は、居並ぶ珍・怪魚水槽群の片隅に、一風変わったザリガニがいるのを見つけました。見たこともない金属的な青さを身にまとったその巨大なザリガニは、「アーリーブルー・ロブスター」という名札をつけられ、やはり5の数字と、0が4つ、並んでいました。ふと、男は以前見た白いザリガニの衝撃を思い出しましたが、その時同様、男は、冷酷な値札の前に断念せざるを得ませんでした。
 ところが・・・。
 その隣の水槽を見た途端、男の心臓は、ハッキリ聞き取れるほど脈打ち始めました。そこには、10センチにも満たない青のザリガニたちが、チョコマカと動き回っていたからです。しかも、8と5の数字に続く、恐怖の0は2つだけ・・・。男は、迷わず店主の前に歩みを進めました。
 これまたアロワナ業界で有名な、人なつっこい丸顔の店主は、私の質問に嫌な顔ひとつせず答えて下さいました。曰く「大きくなると、隣の巨大ザリガニになること。でも、そこまで何年掛かるかは、わからないこと。オーストラリアの国立公園に住んでいるらしいこと。ザリガニだから、餌はスルメでも何でもいいこと・・・。」
 そして、「まぁ、遊んでやって下さい」という、店主の優しい声に送られてショップを出た私の左手には、小さな青い、そして新しい遊び相手がいました。
 私自身、その時は、本当に「遊び相手」のつもりでした。そして、これから起こる大嵐など予想すらせず、青い遊び相手は、アロワナ水槽の下段にあった、小さな水槽に納められたのです。
 「スルメでも大丈夫・・・」 確かに、そうは言われました。ただ、スルメで飼育するほど、安い個体ではありません。とりあえず、男は、ナマズ系の配合飼料やアカムシなどを与え、毎日眺めておりました。
 そして、運命の3日目の朝を迎えるのです。


第5章 突然の死


 この男の朝は、水槽のチェックから始まります。その日も、奥様の起床ラッパに叩き起こされ、どこか気だるい眠気を引きずりながら、いつものように、男は水槽の前に立ちました。
 アロワナたちは、これまたいつもと変わらぬ風に、餌をねだるポーズを見せました。「おう、おう、わかったよぉ」と、男は、餌を数粒、水槽に放り込みます。カポッ、カポッと、餌は彼らの口に取り込まれて行きました。彼らの元気な証拠です。男は、満足そうに目をそらし、そして、一気に凍りつきました。男の目線の先には、ひっくり返ったまま事切れている、青い遊び相手の姿があったのです。
 生き物に携わって四半世紀余。その男には、曲がりなりにも、自分の飼育技術に対する「自信」がありました。注意こそしていましたが、たかがザリガニ。自分が飼育に失敗し、たった3日で殺してしまうことなぞ、少したりとも考えていなかったのです。でも、確かに男の前には、無惨な骸がその身をさらしていました。そして、それ自体、自らの安易な考えを根底から打ち砕くのには、あまりにも完全な「証拠」でありました。
 男は愕然とし、そして言葉を失いました。それは、予想外の結果に対しての驚きや、それなりに高いお金を出したことに対する落胆ばかりではありませんでした。自らの「無能」さと「杜撰」さ、そして「安易」さを、まとめて胸元に突きつけられた・・・。そんな思いに支配されたのです。そして、男の心にわき上がってきたのは、「悲しさ」以上の「悔しさ」であり「怒り」でした。
 「この俺が、たかがザリガニ1匹すら飼いきれず、こうして短い命を絶たせてしまった・・・」 これは、男にとっては絶対にあってはならないことであり、なおかつ悲しいことでありました。そして、申し訳ないことでした。これを、今までの人生で数多く接してきた「死」の一つとして捉え、時間の流れの中で忘却させて行くことなど、この男には、とてもできそうにないことでした。
 悲しい、申し訳ない、そして悔しい・・・。
 男は、何とかして、この思いをそそぎたい・・・と思いました。


第6章 子ども・・・だけ?


 男は翌日、地元ではかなり大きな書店に出掛けました。もちろん、「死因を知り、解決法を見つけるため」です。そのための本なら、多少の出費も厭わない・・・と、男のポケットには、奥様に頼み込んで前貸しをしていただいた福沢諭吉さんが一人、潜んでいました。
 まず、男は迷わず、生物学のコーナーに足を運びます。こんな時、自分の知的欲求を満たす本が「ペット」のコーナーにないことなどは、長年のオタク遍歴からわかっていました。そして、それくらいのことを極めなければ、自分の想いを注げないことも、充分にわかっていたことでした。
 果たして、書棚には多くの専門書が並んでいました。そして、男は、それっぽい本を1冊ずつ手に取り、中身をチェックして行きます。しかし、10分たっても20分たっても、目指す本が見当たりません。男は焦りました。雑誌のコーナーからペットのコーナーまで、くまなく探し回りました。そして、児童書のコーナーにたどり着いた時、男は初めて1冊の本を手にしました。「誰も知らないザリガニの話」 そう銘打った児童書以上に、ザリガニのことを詳しく書いてある本はなかったのです。子ども・・・だけ? 男は暗澹たる気分になりました。
 そのまた翌日、男はいつもより早起きをし、今度は「日本一大きい」といわれる、お茶の水のS書店に足を運びました。「ここなら、絶対に何かあるに違いない・・・」と、男は信じていたからです。
 しかし、やっぱりそこにも、「誰も知らないザリガニの話」以上の本はありませんでした。背広姿の男は、恥ずかしそうにその児童書を買いましたが、その日も、男には、ため息だけが残りました。
 次の日曜日、男は足を棒にして、ショップ巡りに精を出しました。「餅は餅屋」という言葉通り、ペットのことは、ショップに聞くのが一番だ・・・と思ったからです。
 ですから、およそ「詳しい」といわれるショップには迷わず飛び込み、「オーストラリアの青いザリガニ」について聞いて歩きました。でも、結果は、かえって混乱するばかり・・・。プロとして「知らない」とは言えないからなのでしょうか? とにかく、ショップごとに内容が違うのです。「ああいう色は、熱帯で水深のあるところに住んでいる証拠。だから、このザリガニは、オーストラリアでも北部の暑い地域にある湖しか見られないんです」とは、熱帯魚マニアなら絶対名前を知っている、某専門ショップの御主人。今から思えば、開いた口もふさがらない「お粗末な見解」ですが、そんな情報も含めて、全然内容の違う、様々な情報が入ってくると、正直、どうしようもありません。
「これは、やっぱり専門書を探さないといけないなぁ・・・」
男は、再び本探しを始めました。


第7章 トンチンカンな専門書


 あの日の朝から、約1ヶ月が経ちました。そして、その日の朝も、ブラックアロワナたちは元気でした。ただ、相変わらず下段の水槽は、主なきまま、空しく水を回していました。男は、思い切って本の「聖地」に乗り込むことにしました。大学時代、さんざんお世話になった「国立国会図書館」へ・・・です。日本の書籍のすべてが結集するといわれるこの図書館なら、必ずや何か手がかりがつかめるに違いない・・・。男は悲壮な決意に燃えていました。
 大都会のド真ん中、威風堂々と鎮座する国会議事堂のすぐ横に、燦然とそびえる国会図書館。どういうわけか、ここは何回来ても、心ワクワクするところです。請求した本が出てくるまで、とにかく時間のかかる図書館ではありますが、それもまた楽し・・・。
 男は、さっそく検索に取り掛かりました。これまた膨大なカードをめくりにめくって、探すこと数時間。開館と同時に乗り込んだ男ではありましたが、一回目の閲覧請求で本を手にした時、時計はすでにお昼を回っていました。
 さて、男はそれから何回か再請求をし、やっと「これ!」という本を手にしました。今となっては我々の基本書である、フスト先生の「世界のエビ類養殖」です。男は書名をメモし、そそくさと図書館を出、その足で本屋に注文をしました。
 待つこと2週間。ついに男の家へ、その本がやってきました。青ザリガニのいた水槽には、なぜか餌金が泳いでいましたが、男は気合いに燃えていました。さっそく赤ペン片手に本を開きましたが、読み進めるうちに、男の顔は紅潮するどころか、みるみる蒼ざめてゆきました。なぜかって? 答は簡単。内容が全然わからないから・・・です。見たことも聞いたこともない、イタリック体の学名が満ち満ちた文章を、何度も何度も読み返し、何度も何度も頭を抱えました。「こりゃ、ダメだぁ・・・」
 でも、男は、ここで一つだけ、ハッキリとした「事実」を知りました。それは、「ザリガニというものが、少なくとも飼育分野においては、全然できあがっていない」ということ・・・。ザリガニを食用として消費する欧米やオーストラリアでは、それなりの研究がなされているに違いありません。エレクトリック・ブルーロブスターが鮮烈な日本デビューを果たしてからというもの、小規模かつ不定期ではありますが、色とりどりのザリガニが輸入されてきているのです。だとすれば、輸入元の国々には、少なくとも日本人以上の知識や技量を持ったキーパーがいるに違いありません。だとすれば・・・。
 もとより凝り性であるこの男には、ここで「来た道を引き返す」という選択肢など、最初からありませんでした。しかし、今回ばかりは、今まで凝って来た何よりも、高く、そして難しい壁でありました。


第8章 Mくんのアイデア


 まずは、この本に書いてあることをわからなければ、どうしようもありません。男は、同僚の理科担当講師に食い下がり、見事「岩波生物学辞典」を強奪(?)しました。ところが、同じ岩波の辞典でも、日ごろ手足のように駆使できる国語辞典とは大違い! 引いた言葉の説明がわからず、その言葉を引き直す・・・という、恐ろしく稚拙な研究のスタートです。一つの言葉を調べるために、十回近く辞書を引くことも珍しいことではなく、男の周りには、同僚の哀れみと、家族の白い眼が飛び交いました。
 ところが、執念とは凄いもので、男は、首っ引きで辞書と格闘し始めてから1カ月後には、その文章の概略が理解できるようになってきたのです。不思議なもので、おぼろげにでも中味がわかってくると、征服欲も自ずと高まってくるもの。男は、1冊のバインダーを準備し、文章内容で理解できない部分を書き連ねて行きました。「これがわかれば、内容はもっとわかるのになぁ・・・」男は、タメ息をつきながら文章を読み続けました。
 男の友人に、Mくんという人がいました。男の後輩で、ディスカス飼育にかけては一過言持ち、次々と繁殖を繰り返しては、近所のショップで餌に交換する・・・という、セミプロみたいなキーパーでした。水モノ飼育という点で共通項のある二人は、何かにつけて色々と相談し合う仲でした。
 ある日、男は、Mくんにこう言いました。「せっかく本も見つけて、辞書も借りて読んでいるんだけど、わからない部分が解決できないんだよ。だから、わからないところがわからないままになっちゃうんだ。でも、ザリガニの学者って、日本にはいないし、ショップに聞いても、みんなメチャクチャなこと言うから、どうしようもないよ」と・・・。
 Mくんは、男と違い、それはそれは愛想が良く、誰からも好かれる人でした。Mくんは、しばらく考えていましたが、やがて本棚から雑誌のバックナンバーを取り出してきて、こう言いました。「こないだテレビ見てた時に、この先生が出てたんですよ。甲殻類の新着記事では、いつも名前が出てるし、凄い先生なんですよ、きっと・・・。まずは、一度トライしてみたらどうですか? 親切な先生だったら答えてくれるし、そうでなければ諦める・・・。相手にされなかったとしても、何もしないよりはマシでしょ?」 Mくんの指す先には、確かに、ある先生のお名前が書かれていました。「同定・資料協力、国立科学博物館 武田正倫」・・・と。
「ウン、そうかも知れないなぁ。よし、トライしてみるか!」 男は、意気揚々と、そしてどことなく不安げに答えました。ついに、自分ひとりの世界から飛び出す時が来たのです。


第9章 小さくて、大きな決断


 武田正倫先生・・・。男は、Mくんによって、更なる進歩に向けた「きっかけ」をつかむことができました。ところがこの男、生来の無愛想に加えて、誤解されやすい人相、人一倍デカい態度・・・。「人間関係はゼロから始まる」と申しますが、男の人生の中では、むしろ「マイナス」より始まったケースの方が圧倒的でした。しかも、今回は本当の学者さんで、日本における甲殻類研究の権威でいらっしゃる・・・。うっかり失礼でもしようものなら、今後の研究は進みません。大学時代、教授に「ワシはキミの友人じゃあないぞ!」と叱れること数知れず・・・なこの男は、絶好のチャンスを前に、すっかり萎縮してしまったのでありました。
 悩むこと数日。バインダーに書き込まれた疑問は、当然ながらそのままでした。男は「こりゃあ、そのままウジウジしててもしょうがないなぁ。とにかく、精一杯お願いしてみよう!」と、ついに小さな、でも男にとっては大きな決心をしたのです。
 男も、「段取り・仕切り」の腕前には少なからず自信があったのですが、友人のMくんは、さらにその上を行く「段取り上手」でありました。決心のついた男のもとには、すでに武田先生の研究室の直通電話番号のメモが届けられていたのです。
 ドキドキ、バクバク・・・。男の心臓は、もういいよと言いたくなるぐらいのスピードで脈打ちます。日ごろ、めったに汗などかかないのに、受話器を持つ手は、じんわりと汗ばんでいます。こんなに緊張して受話器を持つのは、中学時代、片想いの女の子に告白の電話を掛けた時以来のことでした。もちろん、その時は、見事カンペキに「玉砕」しましたから、いい思い出にもなりませんし、今回の緊張をほぐす効果など、あるわけもありません。
 ルルルルル、ルルルルル・・・。耳元に、呼び出し音が響きます。そして、緊張が極限に達した時、呼び出し音が止まりました。「はい、武田です」 受話器の向こうから、落ち着いた男性の声が聞こえてきました。

第10章 百人町の感激


 男は、堰を切ったかのように話し始めました。
「あの、お忙しいところ、本当に申し訳ございません。私は、砂川と申しまして、ザリガニを飼っている者なんですが、実は、ペットショップで、オーストラリアのザリガニというのを買ったのですが、すぐに死んでしまって。それで・・・」
 今から思えば、さぞや唐突な電話であったに違いありません。でも、先生は、その一つ一つを、丁寧に聞いて下さいました。そして、唐突かつ不躾な質問が全部終わると、優しい声で、「そうですか。あなたはどこにお住まいですか?」とおっしゃるではありませんか。
「ち、千葉に住んでおります。」
「そうですか、じゃあ、もしよろしければ、一度直接私の研究室にいらして下さい。それだけの質問なら、じっくりとお話しした方がよいでしょう。こちらには資料もありますから・・・」
 そして・・・。
受話器を切ってから1週間ほどたったある朝、大都会東京のど真ん中、新大久保駅に降り立つ、男の姿がありました。奥様が気を利かせて持たせたお菓子の包みを手に提げ、バインダーの入ったカバンを片手に改札を抜けて行きます。
 東京都新宿区百人町、国立科学博物館分館・動物研究部・・・。道に迷わないことに掛けては自信のある男でしたが、片手に握りしめた地図にはしっかりと赤い丸がつけられています。通りを抜け、横道に入り、一歩一歩、目指す場所に近づいて行きました。男にとって、国立科学博物館は、小さいころから何度も出掛けていた、いわば「馴染み」の博物館でした。しかし、それは上野公園にある「本館」であって、研究の最前線である分館は、あることさえ知りませんでした。
 歩くこと10数分。男の前には、壮大な白いビルが建っていました。門には「国立科学博物館」という文字が、燦然と輝いています。「よし、行くぞ!」男は、気合いを入れなおして、その門を入って行きました。
 受付で用件を伝えて用紙に記入し、エレベーターで上って行きます。心臓は相変わらずバクバクでしたが、妙な落ち着きもありました。もう、行くしかありません。
 研究室の扉をノックすると、奥から白衣姿の先生が出ていらっしゃいました。そう、武田先生御本人です。「いやぁ、大変な質問ばっかりで、熱心だねぇ・・・」 そんな言葉をいただいて、男の肩からは、ふっと力が抜けて行きました。そして、先生は私の、今から思えば恐ろしく低レベルな質問の数々に、イヤな顔一つせず、丁寧にお答え下さいました。バインダーの白紙は、あっという間に埋まって行きました。そして、先生は「これからも勉強を続けるなら、知っておいた方がいいよ」と、疑問の自力解決法や、そのための資料の集め方まで教えて下さり、最新の資料を、いくつかコピーして下さいました。
 何と嬉しいことでしょうか。そして、何とありがたいことでしょうか・・・。どこの馬の骨ともわからぬ男の、しかも専門を究めたお立場からすれば、考えるのすら面倒になるような質問の数々に、わざわざ研究のお時間を割いてお答え下さるなんて・・・。男は、さっきまでの緊張がウソのように思え、そして、本当に有り難いことだと思いました。
 研究室を辞した時、時計はすでにお昼を回っていました。「オレ、今度生まれ変わったら、学者になろう!」・・・男は、いい歳した大人のくせに、そんな小学生みたいなことを考えながら、駅への道を歩いていました。


第11章 弔い合戦


 武田先生の御指導を受けた後、男のレベルは急激にアップして行きました。自分でも驚くくらい、フスト先生の本の内容がわかるのです。読んでいて、そのザリガニの様子が手に取るようにわかってきます。男の心は、梅雨明け後に広がる青空のような、そんな気分でありました。
 ただ、本の内容がわかり始めるに連れ、男の心は曇って行きました。「なるほど・・・。やっぱり俺は、メチャクチャな飼い方をしていたんだ・・・」 文章を読み進めれば進めるほど、男の認識違いはハッキリと男の目前に現れ、情け容赦なく男に突きつけたのです。それこそ「殺すべくして殺した」ような飼い方をしていたことが・・・。
 男は本当に悔しくなりました。8500円という値段も痛くなくはありませんでしたが、そんなこと以上に、とにかく自分の無知さ加減を腹立たしく思いました。そして、そんな馬鹿な男に自分の生涯を弄ばれたあの青いザリガニに、申し訳なくなりました。これは、何とかしなければいけない・・・。
 折しもそのころ、観賞魚業界では、「エレクトリック・ブルーロブスター旋風」が吹き始めておりました。雑誌にもその綺麗なボディーがデカデカと掲載され、様々なショップの水槽にもデビューするようになりました。こうなると、もう後にはひけません。是が非でも飼育方法を確立し、失った個体以上の個体をこの手で生まれさせ、せめてもの弔いをさせてもらわないと、男の気は済まなかったのです。
 男は、精力的にショップを回りました。そして、帰ってきてはフスト先生の本を読み進め、その「青いザリガニ」に関する情報や疑問点の一つ一つを、丹念にまとめて行きました。男の馴染みのショップでは、そんな男を憐れんだのか、御主人が、わざわざ「青いザリガニ、取り寄せましょうか?」という声を掛けました。しかし、その時の男には、そんな気になれる余裕など、どこにもなかったのです。「いや、もう少ししてからお願いしますよ・・・」 男の目は、血走っていました。
 そんな「行脚」が1カ月くらい続いたでしょうか? 男の書き始めたノートが半分埋まりかけたころ、男は、ふと立ち寄ったショップで、自分が殺したあのザリガニと全く同じ大きさの、綺麗な青いザリガニに出会いました。水槽の片隅にちょこんとたたずむその姿は、あの時、初めて向かい合った時と同じ、得体の知れない衝撃を男に与えました。「よし、そろそろ動いてみる・・・か」 男は、あの時とは違った厳しい表情で、店員さんのところへ歩みを進めました。
 その夜、男の家にあった例の水槽には、再び、青いザリガニの姿がありました。水温・エアー・餌の準備・・・、考えられる要素を全て盛り込んでリセットさせた水槽には、男の「情念」が染み込んでおりました。男のメンツにかけても、落とすわけには行きません。
 「さぁ、弔い合戦だ!」 男は、気合いを入れて日々の状況をメモして行きました。今度こそ、今度こそは、絶対に失敗しない・・・。男は、そう信じていました。


第12章 ギャビーとヨーロピアン・ブルー


 男の家に再び舞い降りた「青い妖精」は、朝な夕な、それこそ穴の開くくらいに男の熱い視線を浴び続けました。研究ノートも、いつしか「飼育記録」になり、毎日の水温、換水量、そして状態・・・と、そんな内容で埋まって行きました。不安であり、でも充実した毎日でした。
 男は、それでも週末になると、あらゆる情報を求めてショップ巡りをしました。有力なショップを数軒回っては、最後に馴染みのショップに寄り、御主人とバカ話をしてから餌を買って帰る・・・。それが男の「決まった日課」でありました。今から思えば失礼極まりない話ですが、それでもこのショップの御主人は、そんな浮気者である男を暖かく出迎え、男の「活動報告」に耳を傾けて下さいました。
 そんな御主人から電話が入ったのは、それから数ヶ月後のことでした。
「最近、あっちこっちの問屋で、青いザリガニが入ってるみたいですよ! ウチは今、水槽が一杯なんで入れられないけど、早めに見て歩いたらどうですか?」
 本当にありがたいお話です。自分の利益にもならないのに、わざわざ電話を掛けて下さるなんて・・・。男は、次の休日、いつもより早起きをし、いつもより多くのショップを見て歩きました。やはり「餅は餅屋」と申します。果たして、業界内部の情報通り、何軒かのショップには、そうした「青いザリガニ」が男につぶらな瞳を見せておりました。
 さて、そんな中、当時はかなり繁盛していた某有力ショップの水槽に、男は「ギャビー」と書かれた青いザリガニを見つけました。値段は1匹20000円也・・・、買うには、少し勇気のいる金額です。いつもなら、男の手が財布に伸びて行くことなど、決してあるはずはない金額でした。でも、男はウズウズしていました。なぜなら、その「ギャビー」というザリガニ・・・、男が数多くのショップを見て歩いてきた中で、一度たりとも見たことのない、それこそ「全然違う」ザリガニだったからです。一見、アメリカザリガニではないかと思ってしまうようなフォルムに、今まで見慣れてきたどのザリガニとも違うスカイブルー・・・。ハサミには、不思議な純白の小さいスパインが躍っています。
 男は、滅多に声を掛けたことのない店長の前に歩み寄り、さっそくこのザリの「素性」を聞き始めました。店長曰く「ヨーロッパのザリガニで、ドイツ便の自社輸入モノ。インボイスがギャビーだったので、そのまま付けてるんです・・・」 男は、ただでさえハッキリしていない今のザリを差し置いて、もう1つの「難題」を抱え込むことに、ずいぶんと躊躇しました。しかし、それ以上に、この「難題」を我が家に出迎えたくもありました。悩むに悩むこと数十分・・・。ショップを出てきた男の左手には、いつかの出会いの時と同じく、白いビニール袋がぶら下がっておりました。
 ところが、続くときは続くものです。翌週、同じショップを訪れた男を出迎えたのは、「ヨーロピアン・ブルー」という名前の、これまた全く違ったザリガニ・・・。「イギリス便」だというそのザリガニは、またもやその不思議な容姿で、男の心を乱すのです。そしてやっぱり、ショップを出てきた男の左手には、白いビニール袋がぶら下がっているのでした。
 女の勘・・・は鋭いもので、そんな男の姿を見た男の奥様は、すかさず「ねぇ、そろそろいい加減にしないと、本当にのめり込んじゃうわよ!」と、男にクギを刺しました。「ウン、わかってるよ・・・」 男は、ほとんど聞き流しているかのような空返事をしていましたが、すでにこの時、男の家の下駄箱の上には、3つの30センチ水槽が、ビンビンに水を回しておりました。




青雲の巻(第13章〜)に続く