黄金街道
〜 総武快速線のEF65PF 〜
(総武快速線 市川にて)
日本屈指の石油精製施設を有する京葉臨海工業地域。中近東を始めとした世界各国から運ばれてきた原油は、ここの工場で用途別に精製され、全国へと運ばれて行きます。そうした輸送の主役を担っていたのが、石油専用貨物列車でありました。当時、ファンの間では「タンカー」と呼ばれたこれらの列車は、高速度対応のヨ8000に両端を挟まれ、黒光りするタンク車のみで連ねられた長大な列車でありました。ワムやトラなどの雑多な「黒い貨車」で構成された区間貨物列車とは異なり、どの線区でも、その均整の取れた編成美を余すところなく見せつけていたのです。蘇我から、鹿島から、そして、蘇我へ、鹿島へ、1日何本もの専貨スジが引かれ、石油需要の高まる冬場にもなると、臨スジも含めて、総武快速線は、まさに「タンカー銀座」といっても過言ではない盛況ぶりでありました。
ただ、人間とは皮肉なものです。どんなに美しかろうが、どんなに素晴らしかろうが、その風景がその人にとって、あまりに当たり前で、あまりに日常的だった時、その価値を見出す「心の鏡」は曇ってしまうものです。違う地域からやってきたファンたちが、嬉々としてカメラを向ける中、どこか冷めた目でその姿を見つめる「千葉県産」ファンの姿がありました。何だよ、別に、ただのタンカーじゃん・・・。
ジェットA−1輸送が終了し、本数が激減したように見えても、相変わらずホームに立てば、やってくるのはタンカーばかり・・・。もはやカメラを向ける気にもならず、後から見返しても、辛うじて次位無動で佐倉のDD51がぶら下がっているスジが、フィルムに収まっているのみです。
あれから20年近い月日が流れ、「千葉の顔」とまで言われた佐倉区のDD51が姿を消し、貨物輸送の本流も総武快速線から京葉線へと移って行きました。総武快速線を走る貨物列車は、鹿島行きのコンテナ専貨3往復と、僅かに残った蘇我往復の数本しかありません。あれほど頻繁に見ることができたタンカーも、今や総武線上には、1本すら残っていないのです。
あまりに当たり前で、あまりに日常的だったあの頃・・・。全身カナリア色の103系電車を横目に、DD51やEF65PFに牽かれた上下のタンカーが、当たり前のようにすれ違う、当たり前の光景がそこにはありました。もし、今、こんなスジがあったとしたら、きっと大変な数の「三脚」が、駅や線路際に立つことでしょう。当たり前が「当たり前」でなくなった時、人は初めて、その素晴らしさに気付くものなのかも知れません。
もどる