ジェットA-1の面影
〜 成田線のDD51 〜
(成田線 佐倉-酒々井)
嵐のような反対運動の中で産声をあげた成田空港ですが、滑走路やターミナルビルといった根本的な施設の問題だけではなく、様々な「未完成、未解決」を抱えた船出となりました。中でも、港湾施設に面しない内陸空港として絶対に解決しておかねばならない「航空燃料」の供給パイプラインが完成しておらず、あれだけの大型旅客機が発着する大空港の航空燃料を、毎日貨車で輸送しなければならない・・・というお粗末な状況でスタートせざるを得なかったのです。
蘇我から一旦幕張まで上がり、幕張で機回しをして成田の土屋専用中継基地まで、そのためだけに使われる専用のタキ編成が、連日何往復も走ります。その先頭には、佐倉区のDD51がペアを組んで充当されました。何の変哲もない重連専貨ですが、空港に反対する過激派からすれば、これ以上都合のよい攻撃目標はなく、たびたび狙われ、そして実際に襲撃されたこともありました。沿線の警備はもちろん、線路脇でカメラ片手に待ち構えているだけで、運転士が警戒し、列車が目の前で停まってしまうこともあったのです。そして、それから5分も経たないうちに見回りの警察官が来て職務質問・・・。線路脇に立つだけで怪しまれるほどのピリピリした環境の中、このタンカーは往復を続けていたのです。いくら屈強なカマ屋といっても、出掛けるたびに職務質問を繰り返されていると、自ずとやる気も萎えるというもの・・・。それでも、お召列車のような美しい列車なら別でしょうが、所詮はただのタンカー・・・。重連とはいっても、DD51自体、別に珍しくも何ともなかった時代ですから、自然と足が遠のくのは、当たり前のことでありました。
波乱の開港から何年か経ってようやく京葉工業地帯と成田空港とを結ぶパイプラインが完成し、この専貨もひっそりと姿を消しました。そして、ふと気付くと、DD51そのものがポツリ、ポツリと姿を消し始めていたのです。慌てて出掛け直した時には、往時の活況など、遥か昔の話となっていました。佐倉区も火の消えたようになり、ホームから見えるのは、輝きを失った休車群の列ばかり・・・。すっかり減った充当スジも、本重連は数えるほどになり、撮影できるのも、無動で次位にぶら下がった情けないスジばかりになりました。輝きを失ったカマたちに、魅力など感じようはずがありません。結局、深い溜息とともに、再び足が遠のくのでありました。
そんな中、編成重量の都合上、1往復だけ「真の重連」となる鹿島タ行きのスジがありました。佐倉でカマ替えをし、まさに「さぁ、行くぞ!」の気合いよろしく、フル・パワーで北総路を進んで行きます。蒸機と比べれば寂しい煙ですが、それでも出発直後は、それなりの排煙を吹き上げてくれました。まさに「躍動」の瞬間です。
朝のラッシュが終わったころ、佐倉区をちょっと覗いてみると、842号機ともう1輌が手をつないで始業前点検を受けています。ということは、今日は842が頭だナ・・・。何だか少し、得した気分で撮影ポイントへと急ぎます。あとは、時間が来るのを待つばかり・・・。
列車が佐倉駅についたのでしょうか? 遠くで何度か、短い汽笛のやり取りが聞こえます。そして、しばらく経った後に聞こえる2つの長い汽笛、そして踏み切りの警報音・・・。
成田空港が、いつしか「当たり前」となり、あれほど強烈だった反対運動が「歴史上のできごと」になろうとしている今、あのころの緊張感を沸々と思い出させてくれるようなパワーをみなぎらせながら、2つの「煙」がこちらに進んできました。後ろが整然としたタンカーから雑多な車列に変わっても、そして行き先が成田から鹿島に変わっても、通い慣れた「ジェットA-1」の道に変わりはありません。ところどころに、ちょっとしたオシャレを施した842号機が、僚友とともに長い車列を率いて駆け抜けて行きます。北総路の空の下には、やっぱり真っ赤なデデゴイチが一番映えるのでありました。架線下のディーゼル王国、佐倉区の最晩期に咲いた勇壮なスジ・・・。成田空港の歴史は、意外なところでも、その確かな足跡を残していたのでありました。
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