今夜の番組
〜 総武快速線のクモユニ74 〜



(総武快速線 市川にて)


 どちらかといえば機関車が好きな「カマ追い組」のファンたちにとって「デンシャ」というのは邪道であり、「デンシャにカメラを向けるファン」というのは、どちらかというと軽蔑の対象でありました。ハタから見れば同じ鉄道ファンに違いないのですが、本人たちの中では、意味のない、しかし明確な線引きをしていたのです。そして、カマ追いを自称する以上「意地でも電車なんか撮るものか!」などという、それこそ全く意味のない自負のようなものがあったのです。
 昼過ぎに蘇我を出るタンカーは、日によって次位に佐倉のDD51をぶら下げる面白いスジでした。新鶴見のPFとのコンビネーションは、千葉の人間からすれば格段珍しいものでもありませんでしたが、地方から友人がくれば、まず間違いなく「御紹介」するスジだったのです。そんな時、かぶりがなく足回りに障害のない市川は、非常にいいスポットでありました。
 スジの入る少し前に、幕張から出区してくる両国までの荷回電が1本、ありました。たいていはクモユニ74の4連で、日によってはクモハユ74が1輌か2輌含まれました。定時輸送が絶対条件である夕刊紙の配送は、高速道路や並列国道の乏しい千葉県各地区の場合、トラックでは非常に難しく、全国的に縮小傾向にある荷物電車も、ここではまだまだ必要不可欠であったのです。総武本線、成田線、内房線、外房線・・・。千葉から別れ行く4線区それぞれに1輌ずつ、それぞれ普通電車の最後尾に併結されるため、幕張から両国、そして折り返して千葉の手前まで、合計で4輌の「専用編成」が組まれるのでありました。
夕刊がない日曜日を除いて、毎日昼ごろになると、千葉県各地区へ地下乗り入れの113系が5輌編成が颯爽と走るその道を、ガタガタと台車を軋ませながら、騒々しく走り抜ける姿がありました。ボディーカラーは同じでも、鉄路を生きてきた長さが違いすぎました。身体の傷み具合は、もっと違いすぎました。快速線というには、あまりにも苦しそうな走りが、そこにはあったのです。それでも、たいていの日は、カメラを向けることすらありませんでした。通過する荷電を見ながら、ファン同士、何かを語り合った記憶すらありません。あのPFですら、さんざん悪態をついたというのに、もはや、関心すらなかったのでしょうか・・・?
 それから何十年経ち、アルバムの隅から多くの機関車写真に混ざって出てきたこの1枚・・・。何かの偶然か、それともフィルム余りか何かでシャッターを押したのか、たった1枚きりの「総武線荷電」の雄姿でありました。クモユニ74にしてもクモハユ74にしても、今から考えれば大変な「骨董品」です。こんな素晴らしい列車が、もし今の世で走るとすれば、沿線には大変な数のファンが集まることでしょう。それなのに、当時は、大半のファンが撮ろうともせず、平然と見送っていたなんて・・・。大都会の高架線を走る「旧国野郎」は、快速電車と同じカラーを身にまとい、精一杯のスピードで「疾走」していたのです。夕刊といえば、何といっても「今夜の番組」・・・。港の岸壁で網を繕うお父ちゃんへ、利根川の土手を走りながら帰る子どもたちへ、そして、灯台の近くでせっせと晩御飯の支度をするお母ちゃんへ、今夜の番組を教えてあげるため・・・に。
そんな多くの人々へのプレゼントをいっぱいに背負って、4人の爺さんたちは、毎日手を繋いで複々線のド真ん中を駆けていたのでした。

 


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