遠い潮風
〜 総武本線のEF81-300 〜
(総武本線 幕張付近にて)
東海道スジのゴハチ定期スジが消滅した後、ターゲットを失った多くの首都圏在住機関車ファンを救ったのは、常磐口の雄、EF80でありました。スタイルこそゴハチに遠く及びませんでしたが、交直流電機のパイオニアとして、ひたすら常磐路を走り続けたその姿には、独特の美しさがありました。ただ、この当時、内郷区のハチマルは壊滅状態であり、田端区のハチマルも続々と「大宮墓地行き」が出ている状態・・・。細々と残っているとはいえ、ハチマルだけの限定仕業はすでになく、仕業は、すべてEF81との共通運用だったのです。おまけに、この区は、自区入庫後の「カマ換え」が多く、これもファン泣かせでありました。
「カマ換え」とは、仕業の途中で機関車が代わってしまうことです。たとえば、その区の機関車にA1〜A8まで仕業が設定されていたとすると、カマが仕業に入る時には、A1仕業に入ればA8仕業までそのまま通して入って行くのが普通なので、仮にA5仕業の中に自分の撮りたいスジがある時、ファンは前日のA4仕業や、前々日あたりのA3仕業などでカマ番をチェックし、お気に入りのカマがA5仕業に入る日を事前に押さえておく・・・という方法を取るのでした。特に、興味ないカマと興味あるカマとが共通の運用に入っていたりする場合、ファンは無駄な撮影を避けるため、この情報を大切にしました。
ところが、当時、なぜか田端区の場合、運用の最後で自区に戻る仕業の後、次の仕業に全く違うカマが入ってしまうこともありました。前述のたとえを使うなら「昨日のA4仕業に入っていたカマと全然別のカマが、今日のA5仕業に充当されている」というようなものです。別に「カマは、必ず通し仕業で使わなければならない」という決まりもありませんから、機関区を恨むわけには行きませんし、走行距離や性能に大きな違いのあるEF80とEF81とを一緒に使うわけですから、双方、同じ条件で使うには無理があったのかも知れません。でも、唯一のスカート&ヒサシ装備機だった29号機あたりを追い回しているファンなどにとっては、恨み言の1つも言いたくなるのでありました。
さて、そのころ、朝の下り総武快速線に、新小岩操発蘇我行きの区間貨物のスジが1本ありました。こんなクソ忙しい時間ですから、ただの普貨スジであれば、相手にする人間など誰もいませんでしたが、幸か不幸か、そのスジの先頭に立つのは、共通運用の田端区EF80orEF81と佐倉区のDE10という、ちょっとデコボコな重連でありました。重連とはいっても、次位のDE10は蘇我と千葉貨物ターミナルの入換仕業につくための回送ですから、単なる「ぶら下がり」に過ぎないのですが、DLですので「パンタ下げ」という絵としての心配をする必要もありません。「ハチマル狙い」のファンには、まさに恰好の「ブレックファスト」だったのです。
ただ、やはり問題なのが「カマ換え」。詳しい仕業番号は忘れてしまいましたが、このスジに入る仕業は、前日夜遅くに田端区を出るスジから始まる、いわゆる「出区仕業」だったのです。前の仕業に入っていたカマをチェックしていても、入庫後、再び出てくるのは「別カマ」であることが少なくありません。でも、闇雲に行くほど、ハチマルの数は多くないし・・・。結局、信じるしかなかったのです。
「昨日の夕方、武操からのタンカーはニックだったよ!」
「ナニ? じゃあ、明日の重連はニックじゃねぇか!」
「そのまま入ってくれれば・・・ね」
「賭けるしかねぇなぁ・・・。ヨシ、明日は朝から出撃しよう!」
仲間のファン同士でそんなやり取りを交わした翌朝、幕張駅横にある、通称「開かずの踏切」へと出掛けるのでありました。このスジは、ここにある側線で十数分間停車し、何本かの快速列車を追い抜かせるからです。学校への通学定期では、この駅で降りることができません。このスジを押さえるためには、100円玉3枚の「余分な出費」と、1時間以上も早く家を出る・・・という「ツラい修行」が必要とされました。それでもニックが、いや、ニックはダメでもパーマルが撮れるならば・・・と思えばこそ、早く起きることもできたし、余計な乗り越し料金も払うことができたのです。
冬にしては珍しく、どんより曇った寒い朝・・・。やっとの思いで布団を飛び出し、ジュース代を節約しなければならない乗り越し運賃を支払って駅を出ます。数カ月先の「検切れ」が、ほぼ間違いなく「終焉」を意味するニックを待つ・・・。それ以外の目的は、何もありませんでした。警報機が鳴り、側線のポイントが開きます。そして、向こうから、見慣れたニックが・・・あれ?
遠くからゆっくりと近づいてきて、そして目の前に停まったのは、お待ちかねのニックとは似てもにつかぬ、関門仕様のEF81-300でありました。
「なんだよぉ、パーイチかよぉ・・・。おまけにカンモンさんだし・・・」
当時、運用上の理由で田端区に貸し出されていたEF81-300は、特徴あるステンレス・ボディーも一般色に塗り換えられていました。特徴ある銀色ボディーでなければ、全身を覆うコルゲートは、ただの「ギザギザ」に過ぎませんし、ヒゲがない分、その顔も、ずいぶん野暮ったいものでありました。おまけに、この「関門海峡からの招かざる客」によって、貴重なハチマルが何輌も「大宮送り」になったのですから、ファンがこのカマたちを快く迎えるはずなどありません。どこへ行っても、何に入っても「厄介者」なのでありました。「カンモンさん」という言葉には、ファンの、そういう気持ちが反映されていたのです。
29号機の雄姿を撮ろうと思っていただけに、到底、カメラなど構える気にはなれません。かといって、せっかく気合いを入れて早起きし、わざわざ乗り越し運賃まで払ってこの場にきたのに、ただの1枚もシャッターを切らずに帰るのも、実に癪なことでありました。仕方ない、一枚くらい、撮ってやるか・・・。
「カンモンさん」たちは、潮風などこれっぽっちも感じられない都会の道を、ほとんどフラッシュの光を浴びることもないまま黙々と走り続け、やがて、古巣である関門海峡へと戻って行きました。
最後の活躍を見せるハチマルの前には、連日、多くのファンのカメラが、三脚が並びました。でも、わざわざ「カンモンさん」を撮ってやろうというような奇特なファンなど、いようはずもありません。「カンモンさん」たちにとって、大都会・東京の風は、あまりにも冷たく、乾いたものだったことでしょう。古巣でブルートレインを牽引する雄々しい姿と比較して、なんとも寂しげで悲しげな、冬の1ショットなのでありました。
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