己の本分を尽くせる喜び
〜 北陸本線の20系 〜
(東海道本線 大阪にて)
ブルートレインといえば、ひと昔前の鉄道少年にとっては、常に「夢」であり「憧れ」でありました。そして、20系客車といえば、そのブルートレインの黄金期を象徴する車輌でありました。あさかぜ、はやぶさ、富士、さくら・・・。輝かしいヘッドマークを掲げたカマの後ろには、いつも、このグラマラスなボディーに3本の美しいホワイトラインをあしらった、艶やかな20系客車たちが連なっていたのです。長い汽笛を残し、東京駅のホームを去って行く列車の後ろ姿を眺めながら「いつかは僕も、あれに乗って旅をしよう」と強く心に誓ったものでした。
時は流れ、多くの新しい客車たちが次々とデビューして来る中で、20系客車たちは1本、また1本と定期仕業から外されて行きました。もちろん、新型客車のせいばかりではありません。社会の変化は、いつしかブルートレインそのものにすら、厳しい風を吹きつけるようになっていたのです。ブルートレインとして走ることを宿命として生まれ、「ブルートレインの象徴」であり、まさに「ブルートレインの申し子」とでもいうべきこの20系客車が、その任を解かれてまで生き長らえるための道は、そう多いものではありませんでした。
「あそこの20系は専ら団臨仕業だけらしい。ハネとして使う気はないそうだよ」
「使い勝手の悪いハコだから、波動用っていっても、12系の方が稼働率が高いみたいだな・・・」
たまに漏れ聞こえてくる情報は、過去の栄光から比べると、あまりに悲しく、侘びしいものばかりだったのです。客車区の片隅では、ほとんど使われることもないまま「放置」されているハコが、何本も見受けられました。ひとつの「時代」が終わったのだろうか・・・? 往時の栄光を知る分だけ、その姿は余計哀れに映っていたのです。
昭和という時代がそろそろ終わろうかというころになると、20系客車が本来の働きをさせてもらえるのは、大半が臨スジばかり・・・という状況となりました。それでも、次々と廃車・解体されたり、数輌だけ抜き取って別の客車とコンビを組まされたりしている仲間に比べれば、本来の仕事ができるだけでも、はるかに幸せだったかも知れません。ファンも、そういうスジで懸命に働くこのハコたちを、いつしか温かい目で見つめるようになりました。
この日も、まだ朝靄が晴れきっていない早朝の大阪駅に、青森から長駆走り抜いてきた、臨時「日本海」が滑り込んできます。3本あった老雄の美しいホワイトラインは、いつしか2本になり、その姿は、消えて行った仲間たちの菩提を弔いつつ旅を続ける老僧のようにも思えました。
「チェッ、宮原のハコもとうとう坊主にしやがった。撮る気にもなれねぇ・・・」
隣にいた若いファンが、構えていたカメラを下げて、こう吐き捨てます。「坊主」とは、当時の鉄道ファンが付けたあだ名で、2本ラインの20系を揶揄するのに、これ以上にないほどドンピシャリの言葉でした。確かに、その若い子が言う通り、2本ラインのカッコ悪い姿でありました。でも、私には、少年時代、東京駅のホームで眺めていたころには感じ得なかった「美しさ」があることに気付いていました。
「この世のすべてのものは、いつか必ず滅びる」というのは、多くの宗教で語られる定番のフレーズです。それで考えれば、老いてもなお、美しくあり続けることなど、やはり無理なのかも知れません。でも、老いたら老いたで生きる道はあるはず・・・。ブルートレインが「ブルートレイン」として懸命に生きている、懸命に走り、挑み続けるこの姿には、ラインの数では推し量れない「美しさ」があったはずです。そして、定期列車であろうが臨時列車であろうが、そんな些末なことなど関係なく、自分が最も「自分らしく」あり続けることができる「喜び」や「誇り」が、この場所には、ほんのかすかですが漂っていたのかも知れません。
臨時「日本海」運転の最終日。閑散としたホームで、ところどころ錆の浮き出た身体を休めていたハコは、ほんの数人のファンが見送る中、ゆっくりと宮原側へ去って行きました。そしてその後、大阪駅のホームで20系の雄姿を見掛けることは、二度とありませんでした。
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