往くものと来るものとの間に
〜 山手貨物線のEF64-1000 〜



(田端操車場にて)


「タバソーでも寄ってこうか?」
「そうだナ。今日はもう、いいスジもないしな・・・」
昼下がり・・・。午前中の狙いスジを無事にゲットした機関車ファンたちは、特に大きな狙い目がなくなると、三々五々、田端駅を降り、田端操車場へと集まってきました。ここには、東京北局を代表する大機関区である田端区があって、上越線や信越本線、そして東北本線の主力機から常磐線用の交直流機までが集っていたからです。周囲を線路に囲まれ、滅多に近寄ることのできない東京区とは異なり、機関区の真ん中を横切る公道から、様々な種類のカマを間近に見ることができました。何の約束があったわけでもなく、まるで吸い寄せられるかのように集まってきたファンたちは、ここで当たり前のようにお気に入りのカマたちを眺め、そして情報を交換し合っていました。
 まだ夕方と呼ぶには少し早い時間、そんなファンたちの横を、いつも1本の荷物列車がゆっくりと通過して行くのでした。それは、隅田川操発横浜羽沢操行きの区間列車・・・。当時、荷物列車といえばゴハチの独壇場であり、こうしたスジばかりを追う「ニモレ野郎」と呼ばれる機関車ファンたちも多くいました。となれば、その場に集う鉄ちゃんたちも、一斉にカメラを向けるはず・・・。
 しかし、ファンたちは、出発を教える長い汽笛の声にふっと一瞥すると、カメラを構えるどころか、銀箱にすら手を掛けようともせず、また、何事もなかったかのように話を始めました。高崎二区のEF64-1000にパレット荷物車オンリーの編成は、彼らにとって撮る価値すらなかったものなのです。それでなくともEF64-1000は、国境のEF16や雪国装備のゴハチを追いやった張本人・・・。機関車ファンの中には、毛嫌いする人も多かったのです。
 隅田川操から横浜羽沢へ行くためには、ルートを考えると山手貨物線で大崎から品鶴線へと入る必要があります。隅田川操から牽引してきたカマが山手貨物線に入るためには、どこかで一度、牽引方向を転換しなければなりません。上中里で機回しをすれば一度で済みますが、本線上での機回しは現実的でなく、実際には、ほとんどのスジが、途中の田端操で機回しをしました。こうなると、カマは田端操で最後尾についた後、上中里まで別のカマに牽いてもらわなければなりません。このヘルプ仕業を担当したのが、DD13に代わって入換仕業を一手に制圧してきたDE10でありました。DD13も愛嬌のある顔でファンが多かっただけに、これを駆逐したDE10も、また嫌われ者の1人でありました。おまけに、嫌われ者のカマたちに挟まれた肝心の荷物車が、「急行荷物」と称されるような長大な編成ではなく、しかも、風情もへったくれもないパレット車中心ともなれば、カメラを構えようという気になる方が不思議でした。たとえ、それが「プッシュプル」であっても・・・。
 時代は流れ、日本人の生活を取り巻く物流システム自体が大きく変わって行く中、鉄路の世界では、荷物列車そのものが「過去の遺物」となりました。SGをバンバンに焚いたカマを先頭にした列車が、寒風吹きすさぶホームに滑り込んできては、せわしなく荷扱いをする・・・という、まさに「冬の風物詩」であったシーンも、遠い思い出になりました。今も、多くのファンが、そんな荷物列車の姿を、風景を懐かしんでいることでしょう。でも、そんな荷物列車が最期を迎えようとしている同じ時、大都会の片隅で、こんな列車が走っていたことを懐かしむ人はいるのでしょうか? SGの湯気も、暖かみあるブドウ色の旧客荷物車もなく、鉄道に興味のない人から見たら、貨物列車としか思えない姿・・・。
 時間とは、時として非情であり、そして残酷です。老いたものや不要になったものは容赦なく葬り、そして、当たり前のように新しいものと馴染んで行きます。まるで、何事もなかったかのように、次々と消し、そして生んで行くのです。でも、そんな流れのちょっとした狭間に、ほんの僅かな間だけ、消え行くものと生まれ育つものとの間に結ばれた手と手・・・。まるで、たった一晩だけ可憐な花を咲かせる月下美人のような煌めきが、この列車にはあったかも知れません。誰もが、カメラすら構えなかったスジでしたが、冷静に考えれば、新時代の申し子であるEF64-1000が、まさに消え行こうとする荷物列車の先頭に立つシーンは、そう多くなかったはずです。おまけに、荷物列車としては珍しすぎるプッシュプルの編成・・・。SGをバンバンに焚いたゴハチと比べても、その雄姿を刻み込んだフィルムは、格段に少なかったはずです。

 時代と時代との僅かな狭間に、多くのファンが背を向けたこの列車こそ、その時代の変わり目を象徴するものだったのかも知れません。

 


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