1ストライク、アウト!
蓑田 浩二外野手(阪急ブレーブス)




「1番から9番までの打順で、一番難しいのは何番か?」

これは、野球好きの人同士や、草野球などを楽しんでおられる経験をお持ちの方であれば、一度は意見をぶつけ合ったテーマではないかと思います。この場合、傾向として1番とか4番などの目立つ打順よりも、2番とか8・9番といった打順を挙げる人が多いのも特徴でしょう。この考えが、1人1人の冷静な野球観による分析結果であることは間違いないと思いますが、総じてこういう「どちらかというか地味で目立たない打順」を好んで評価したくなるのも、日本人特有の「浪花節」的な情愛かも知れません。こうした打順を得意とするプレーヤーに「いぶし銀」とか「職人」とかいう冠詞がよく付けられることでも、これは如実に証明されています。
 さて、全盛期の阪急ブレーブス・・・。錚々たる野武士軍団の斬り込み隊長として、不動の1番に陣取っていたのは、世界の盗塁王、福本豊選手でありました。記録が積み上げられるにつれ、ファンは喜び、そして、なお一層「鮮やかな足技」を期待しました。「福本を見に、西宮へ行く」と公言してはばからないファンも増え、球団の営業も、それを煽り、集客の目玉にしました。
 福本が鮮やかなヒットで塁に出ると、観客の目は、1塁ベースに釘付けとなります。いや、観客だけではなく、敵のバッテリーもベンチも、果てはテレビカメラまで1塁ばかり気にしました。球場全体が「次のバッターが、どう勝負するか?」ではなく「いつ、どうやって福本が走るか?」ということにハラハラ、ドキドキしていたのです。そんな時、静かに、でも敢然とバッターボックスに入っていたのが、この蓑田選手だったのでありました。
 普通、バッターには自由に選択できるストライクが3つ、与えられます。このストライクが3つ入るまでに、自分の好きな球を打てばよい・・・。10回中、3回上手く打てれば「3割打者」と呼ばれ、大威張りができました。でも、彼の場合だけは、それが許されませんでした。自分が打つ以外に、彼には「福本に盗塁させる」という大切な使命があったのです。福本が初球で走る保障など、どこにもありませんでした。いや、福本も超一流の走り屋だからこそ、じっくりと投手を見、うかつなスタートは決して切りません。下手をすれば、ギリギリまで投手との駆け引きを続けました。となると・・・。
 安打であれ凡打であれ、福本が走る前にバットにボールを当ててしまえば、それは、お客さんの期待を裏切ることになりました。また、福本が絶好のスタートを切った時には、カットしたファールでさえ、大ヒンシュクでありました。福本の盗塁を阻止することは、たとえ味方であっても許されないことだったのです。
 時として、絶好の「待ち球」を見逃さざるを得ない時もあったでしょう。捕手の送球タイミングを遅らせるため、つまらないボール球を大振りしなければならない時もあったはずです。とにかく、福本が盗塁を決め、2塁ベース上で喝采を浴びるまでは、ただひたすら待つしかなかったのです。
 西宮球場のスタンドから惜しみない拍手が2塁ベースに送られるころ、スコアボードにある「S」のところには、黄色いランプが2つ、灯っていました。盗塁成功の余韻から覚めた観客の目が、声が、やっとバッターボックスに届き始めます。
「ミノダぁ〜! 福本ホームに返したれぇ〜!」
「浅いフライじゃ許さんぞぉ〜!」
 でも、彼に与えられたストライクは、たった1つだけでありました。まさに「1ストライク、アウト」 普通の打者よりもはるかに過酷な条件の下、観客は、普通の打者よりもはるかに過酷な仕事を彼に望みました。「一球勝負」などという言葉が舌を巻いて逃げ出すほど、それは厳しい仕事であり、役割だったはずです。元々、クリーンアップを打てるだけの確実性もあり、長打力もありました。「打てないから2番」ということでは、決してありませんでした。でも「福本が出れば、蓑田が続く」・・・というのが、当時の阪急の「お約束」になっていたのです。
 普通なら、苦痛に顔も歪んでしまうような状況の中、バッターボックスに立つ彼の姿は、実にクールでありスマートでありました。極限に近い状態であることなど、爪の先ほども感じさせず、平然とした表情で「自分に与えられた、たった1つのストライク」と向き合いました。そして、シャープな打球を外野手の前に打ち返して福本をホームに迎え入れると、まるで当然のことでもしているかのような表情で、1塁ベース上に立っていたのです。
 確かに、多くの観客は「世界の一番打者」を見に来ていたことでしょう。でも、そうしたプレッシャーと戦っていたのは、その一番打者だけではなかったはずです。金字塔の如く積み重ねられた記録の陰に、それこそ金字塔の如く積み重ねられた蓑田選手の「待ちストライク」があったことを、忘れることはできません。「1番」凄い「2番」打者の、誰も褒めない、偉大な記録なのだと思います。バッターボックスに立つ「世界のニ番打者」の端正な姿から、我々は「チームプレー」の美しさを、偉大さを感じないわけには行かないでしょう。こんな選手がいるんですもの。あのころの阪急ブレーブスが強かったのも当たり前ですよね!



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