ユニホームが赤いから・・・
東尾  修投手(太平洋クラブライオンズ)




 今では、パ・リーグを代表する「東の雄」であるライオンズですが、当時、ライオンズといえば、九州を本拠地にする、私たち千葉の子どもにとっては、最も縁のない球団の1つでありました。おまけに「パ・リーグ」となれば、情報もほとんど入ることもなく、中には、真顔でタイヨウ(大洋)だと語る子どももおりました。
 「太平洋はなぁ、昔は西鉄といって、すごい強かったんだぞ。黒い霧さえなければ、今の阪急より強いかも知れない」と、祖父は言いました。阪急といえば、いつも日本シリーズに出てきては、我が巨人を倒す「憎き相手」ですから、子ども心に、その「往年の強さ」はわかったつもりでした。
 それでも、朝のプロ野球ニュース(以前は、朝もプロ野球ニュースをやってたんです。佐々木信也が、朝からあの笑顔で・・・笑)では、このチーム、いつもこてんぱんにやられておりました。「やっぱりユニホームが赤いから弱いんだな、きっと・・・」、学校への歩き道、私は、重いランドセルを背負いながら、いつも送結論づけていました。「太平洋クラブ」という響きも、日拓ホームに似て、何も知らない子どもに弱いイメージを感じ取るには充分なものがありました。解説者が口々に言う「サンゾク打線」も、そして、祖父の言う「クロイキリ」も、子どもにとっては「それくらい悪いもの」としか理解できませんでした。
 最多勝投手というタイトルは、もちろん、ピッチャーとしての能力による部分が大きいのですが、防御率とは異なり、味方打撃陣の出来が大きく左右するタイトルだといっても、決して過言ではありません。そういう意味で、東尾投手がこのタイトルを獲得するためには、他チームの投手以上の苦労と努力があったはずなのです。
 この時、ライオンズが、その歴史上最もつらい時期にあえいでおり、その中で、東尾投手が、まさに「孤軍奮投」していたことを知ったのは、球団が所沢に移り、ようやく光明が見え隠れし始めたころになってからですが、子どもだったからとは言え、あの時、もう少し真剣に、このチーム、そしてこの投手を見ておけばよかったと、今となっては悔やまれてなりません。



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