後楽園球場の青空
柏原 純一内野手(日本ハムファイターズ)




 確実性云々を常に言われながらも、柏原は、紛れもなく日ハムの一時期を背負った不動の4番打者でありました。さすがは「あぶさん」のモデルになっただけあって、彼のホームランは「外野スタンドに突き刺さる」という表現しかできないくらいの強い当たりだったように思います。日ハムファンだった時代は、彼のこんな一発に狂喜乱舞し、そして、南海ファンへと鞍替えしてからも、なぜか素直に喜べてしまうあの弾道。専門家の目には異なって見えたかも知れませんが、当時一世を風靡した「田淵の弾道」とは好対照の、鋭いラインだったように覚えています。
 後楽園球場の名物でもあった背の高い3階内野スタンドは、ここが「大都会のド真ん中」であることを忘れてしまうくらい、とても爽やかで、開放感にあふれていました。土曜日の昼下がり、学校を終えてのんびりと寝っ転がりながら、デーゲームを観戦する・・・。これが、都会人気取りの田舎高校生にとって、至福の瞬間だったのです。
 元がそんな程度の野球ファンですから、試合が単調になってくると、ついつい、視線は真上に広がる抜けた青空へと向かってしまうものでした。ヨドんだ、カスんだと言われる東京の空も、ここで見る時だけは、いつも爽やかに抜けていました。そして、そんな不真面目な野球ファンの視線を再びグラウンドへと向けさせるのs、ウグイス嬢の「4番、ファースト、柏原」のコールだったのです。
 決して威圧的な打者ではありませんでした。そして、神々しさを持った打者でもありませんでした。だから「お〜い、またショートゴロかよぉ〜」なんてことも、少なからずありました。でも、何試合に1回は、目が覚めるような弾丸ホームランを、まるで当たり前かのようにスタンドにブチ込んでくれました。だからこそ、監督も、選手も、そして観客も、柏原のバットに期待したのです。
 今から思えば、ホームランと内野ゴロしか記憶にない「背番号6」ですが、大歓声の中、ダイヤモンドを一周する姿も、内野ゴロでチャンスをつぶし、ヤジられながら1塁の守備に戻る姿も、4番打者としての風格を存分に感じさせた選手でした。もしかしたら、彼こそが、後楽園球場の青空に最も映えた選手だったのかも知れません。



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